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自然葬のココロとは?

7月18日
先日、自然葬を主催している関東のお寺に見学に行ってきました。

自然葬というと、遺灰を海にまいたり、森に散骨したりというイメージがあります。
このお寺の場合は、境内の竹やぶを切り開いて、そこに苗木を植えて、1区画(3.3平米)ごとに分譲するという作りでした。
一般の墓地の墓石の代わりに、芝生と樹木が散在しているというイメージ。

お骨を埋める側とすれば、1区画の占有権を買い取る→故人の名前を彫った正方形の御影石を置く→故人のお骨を埋める、というもの。
法事はやってもやらなくてもいい。ただやるなら、その菩提寺のやり方に沿ってやってもらうというもの。

苗木はお寺が埋めているもので、自分の区画に好きな木を植えることはできない。花ならいい。だから墓石の回りに愛らしい花が植わっているところもあった。

自然葬というから、どんなものかと思ったのだけど、率直な感想をいうと、普通の墓地が、石から緑(芝と樹木)に替わっただけ、のように思えた。
お寺のスタッフの説明だと、「自然保護に貢献することになる」ということ。

私ならどうするかな、と思いながら説明を聞いていた。

遺骨を自然に返すというなら、区画分譲というやりかたは適切なのか?
たとえば買い取った森の中に静かに散骨するというやりかたはどうか?)

その葬儀のあり方は、どういう意味に基づいているのか?(信仰観・宗教観は?)

もし私が、このような場所を持てるなら、御遺灰は深い森の中に還すかもしれないと思う。人が通れるくらいの細い道だけ切り拓いて。

可能なら、散骨した場所に苗木を植えるか。あるいは目印になるような小さなオブジェをその上に置くか。あるいはまったく痕跡が残らないようにするか。

心がけるだろうのは、故人の生きて来た道のりや、御遺族や世の中への思いを、なるべく形にして残すようにデザインすることだろうか。

遺骨を埋めるだけでなく、生前の記録や手紙など、メッセージとなりうるものを保管する。
その寺・場所に行けば、故人の生涯・思いにあらためて触れることができる――。

遺骨がどこに埋まっているかというより、その場所に行って、自分が会いたいと思う人に、心の中で少しでも近づくことこそが、多くの人の願いなのではなかろうか。

「思いを遺す場所」「故人の心に触れることのできる場所」というコンセプトで、私ならこういう場所を営むだろうな、と思った。
実際、私が勤める法事はそういうコンセプトに基づいてさせていただいている。

印象的だったのは、住職さんがいたのに、見学者に自然葬の意味について直接話をしなかったこと。スタッフが、おカネと手続きの話だけして終わってしまったことだ。

これくらいの淡泊さに日本人は慣れているということなのか。
あるいは、もっときちんと、葬儀の意味の深い処を掘り起こして、その意味に基づいて葬儀や墓地をデザインするということを住職がやれば、人々は心動かすのだろうか。

なんとなく肝心の部分が抜けているように思えたのは、私が求めすぎているからか。

墓地が意味を持つとすれば、死者と生者との縁(つながり)をつなげることにある。仏者としての私はそう考えている。
かなりの覚悟がないとできない仕事だろうと思う。

いろいろ考えながら帰って来た。この命はあと何年生きられて、その間に一体どれほどのことができるのか。
夢想と現実との間の距離の大きさをも。