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オリンピックに感じるもの

7月30日(月)
オリンピックが始まりましたね。
私の部屋にはテレビはないのですが、お昼時によくいる場所にテレビが置いてあって、世俗に疎い出家でも、現地の様子を見ることができます。

正直、私にはオリンピックの試合中継というのは、けっこう“痛々しい”。少なくとも、心躍るとか、応援して楽しむとかいう場面ではありません。

というのも、選手一人ひとりが、どれだけの歳月を、地道なトレーニングに費やしてきたかを想うと、めまいのようなクラクラ感を覚えるから。

彼・彼女たちというのは、自分の肉体ひとつで現実と向き合うしかない。
外の人たちは、選手たちの活動を、評価して、審判して、応援して楽しんで、勝った・負けたという情報として処理できる、いうなればお気楽な立場にいる。
でも、選手たちは、周囲に目を向けている余裕などなく、自分の肉体との対話に集中するしかない。それも短期間ではなく、十年単位の長い、長い期間をだ。
選手たちの多くが、生涯の大半を、朝から晩まで練習にあけくれて、怪我したり疲労やスランプと闘ったりして、あの舞台に立っている。

自分自身があの舞台に立っていると想像してみたらどうだろう。自分の小さな体ひとつ。巨大な会場。言葉の通じない審判員やら観客やら。そして周りには、自分と同じように計り知れない量の訓練をしてきた異国の必死の選手たちがいる。何一つ支配できない圧倒的に巨大な空間に、身ひとつで立っている。

何年も、十数年も、ひとつの舞台を追い求めてひたすら練習してきて、本番では瞬間ですべてが終わる。自分のパフォーマンスは、数字で評価されて、順位が決まる。
メディアは勝者だけを追いかけ、それ以外の者たちは負けをかみ締めて去っていく(「皆さんに申し訳ありません」なんていわなくていいのに――誰が言わせているのだろう)。

勝った選手の涙も、負けた選手の涙も、途方もない孤独な練習の歳月からにじみ出てきている。
その涙の重たさは、取材する側のメディアの人間や、涼しい場所でテレビ見て一喜一憂している一般の人たちはけっして共有できないものだろう。
隔絶された涙。たまらない寂しさを感じても不思議でない涙。

勝った選手には深い敬意を感じるけど、負けた選手にも、私は同じくらいの敬意を感じる。「初戦敗退」とだけ報じられるその活字の向こうにいる無名の選手たちにも。

これまでの目に見えない一生懸命を想うから。

オリンピックの舞台というのは、生身の体ひとつで一瞬の勝利に賭ける選手たちが一挙に集まる場所だ。
彼・彼女たちの目に見えない無数の一生懸命を、凝集して見せつけられる場所。
だから見ていて痛々しくなる。厳かな気持ちになってしまう。楽しいものじゃない。

彼・彼女たちが体で知っている一生懸命を、自分は知っているだろうか。
なんだか、ほとんどの時間を妥協まじりに生きてきた感がしなくもない。
見つめていると、そんな気持ちにさえなる。

すべての選手に愛(敬意)を――。