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ネコを助けて!その1&めいっぱいの、ありがとう――

8月23日(木)
巣鴨の教室は、禅の世界へと突入した。

禅というのは、いわば思い込みを破壊する修行。

観念、判断、価値観、自分の人生はこんなもの、私はこういう人間、世の中はこういうものという一切の思いこみを、ただの妄念としてぶっ壊す。

そのための只管打坐(しかんたざ:ひたすら坐禅by道元)であり、公案(頓智問答1700題)。両方ともかなり激しい。精神力、知力を酷使する。

そうやって、“この自分”“この人生”“この現実”を作っていた思い込みを破壊する。

その修行は、かなり激しく厳しいのだけど、もしその目的を遂げることができれば、

心はすっからかんのパーになる(笑)。つまりは、究極の自由の境地に立てる。

そのとき、自分というのは存在しない。ありのままの世界が、宇宙が、広がっているだけ。

自分と他人の区別もなく、自分と世界との区別もない。
自分が消えちゃうのだから、自分は他人であり、世界そのものである。

それを古い禅語では「平等」と表現する。
いわば、一点の自意識の塵もなく、世界全方位に開かれきった境地である。

(※もちろん、以上は比ゆ的な表現です。正確には“そんな感じがする”というところか。)

教室では、その境地をちょこっと覗いてもらおうと、ためしに“公案”をとりあげた。

たとえば――

◎梁(りょう)の武帝が達磨大師(だるまだいし)に問うた。
「究極の真理とはどのようなものか」

「からりと晴れて、聖なるものさえない(廓然無聖(かくねんむしょう)」

武帝はさらに問うた。
「余に相対(あいたい)しているそなたは一体何ものか」

「知らない」

☆「知らない」の本意(意味するところ)は、たとえば、

「んなものワシに聞くな、あなたが見ているそのものだ、見たいように見るがよろしい(自分なんぞないのだし)」

◎僧が禅師・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)に問うた。(碧巌録(へきがんろく)26)
「奇特(すばらしい・尊い)とはどういうものですか」

百丈は言った。
「独り大雄峰に坐するようなことだ(独坐大雄峰)」
 (≒たとえば雄大な景色の峰に独り坐禅を組むことだ)

僧は礼拝した。(≒納得した、の意)

百丈は、すかさずこの僧を打った。(≒分かってない、の意)

☆「打った」の本意は、たとえば、
「雄大な峰の景色こそが素晴らしいと納得しているオマエはまだ思い込みから脱していない。そも坐禅するのに、景色もクソもあるか。この程度の答えに納得しているオマエは何も分かっておらん」

キビシー、ですね(笑)。

ちなみに、上に挙げた本意は、どれも私があえて言葉にしたもので、正解とは限りません。公案には、むしろ答えが出ないもののほうが多い。あるいは、どのような答えも正解になるところがある。

こういう公案を、1700も解いてはじめて悟りの印可(師の公認)を得るのだとか。

言うまでもなく、今の時代に、こんな公案に真剣に取り組んでいるところはないと断言してよいでしょう(笑)。

でも、もういっちょ、公案考えてみません? これ、巣鴨で“次回までに考えてきてくださいね”とお願いしたやつです。ぜひよきアイデアをお寄せ下さい。

◎寺の東西の堂衆(修行僧たち)が猫をめぐって言い争っていた。
南泉(なんせん)和尚が、その猫をつかんでこう言い放った。

「誰の所有であるか言ってみせよ、言うことができれば助けてやるが、言えなければ斬る」

誰も答えられず。

猫は斬られた。

――さて、あなたならなんと答えますか? 答えないと、猫が斬られてしまいます(キビシー)。


*教室によっては、けっこうたくさんのひとが来てくれる。

毎回、私の中で後悔するのが、お別れどき。

できれば一人一人、しっかりと、

来てくれてありがとう、また来てね、
それまで元気でね(幸せであってね)、

と伝えたい。

だけど、個別の質問に答えたり、あいさつを交わしているうちに、みなぱらぱらと出て行ってしまう。

これが、あとになって「もうしわけなかったなー(せっかく来てくれたのになー)」という思いになって残る。

私の中では、自分自身が明日生きていないかもしれない、という思いがある。
これは、妄想ではなく、可能性についての正しい理解。

今日会った相手も、もしかしたら明日は生きていないかもしれない、という思いがある。
実際、ほんとその可能性はあるのである。

仏典の中にも、
「今朝出会ったあの人は、この夕べにはもういなかった。
夕べに出会ったあの人は、翌朝にはもういなかった。」という偈がある。

これは、悲観ではなく、無常についての正しい理解だ。

たしかなのは、今一瞬に生きた姿で出会えている、という事実のみ。先の事は幻でしかない。

巣鴨には、7、80代のシニア世代も、30代の若い世代も来てくれる。
両方、毎回休まずにがんばって足を運んでくれる。そのことの、なんとありがたいことか。

だから、できれば、目一杯、心一杯、感謝と愛を託して、またね、と言いたいのである。でも、それがなかなかできない。なんか切ない。

ということで、ココであらためて伝えよう。

来てくれるあなた、みんなに、命をこめてありがとう、と。

感謝。愛。そして、(自分への)慎み、戒め、反省――。毎回、それの繰り返し。

生きている姿を見られるだけで、どれくらいこの身は幸せか。

生きているあなたの姿は、どれくらい美しく、かけがえなく、輝いているか。

私の目に映るあなたの姿を、いちど伝えてみたいくらいだ。この胸の内にある思いも。

ありがとう――。

草薙龍瞬より、あなたへ