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夏の宣誓!(わたしは二歳?)

※トップページは“出家、日本をゆく”という連載日記です(^^)。

8月21日
最近は、本をみつけて、遠くから来てくださる人が増えてきた。
おたより・相談ごとをお寄せいただく機会も。これはじつに尊いご縁。

ようやく自分が何を語ればいいのか・何をすればいいのか、うっすらと分かるようになってきたように感じる。

●考えてみれば、日本に帰ってきてようやく2年が経った。

この国を出る前は俗に生きる人間で、出家してからは新しい命をさずかった。
出家僧・草薙龍瞬として戻ってきて、2年が経つのだ。

つまり、日本での草薙龍瞬は、「にちゃい(二歳)」
なのである――(と指を2本ひらいたりして(笑))。

戻ってきたときには、ゼロ歳。日本では“生まれたて”。

あったりまえだが、自分が何ものなのか分かってない。
きょとんと周りを見ている感じだった。

帰国した当時は、
この国の状況も知らなかったし(リーマン・ショックもあとで知った(^^;)、
自分がこの国で何をしたらいいのかも分からなかった。

自分であって、自分ではない、妙な浮遊感。

とりあえずという形でこのブログ“出家、日本をゆく”を始めたのは、2010年の9月。

なんだか宇宙の果てしない虚空に手紙入りのボトルを放つ感じ。もちろんリアクションなどない。

正直、生きていけるかどうかも覚束なかった。

「5年やってダメなら野垂れ死にだ」と本気で覚悟していた。

でも、ほんの少しずつ、ありがたい因縁の重力のおかげで、自分の言葉が凝縮して、カタチを表し始めた。
このブログを見てくださっている人たちとの関わりや、
進行中の仏教ライブ、出版させていただいた本というのは、ささやかだけど、そういうカタチのひとつ。

ありがたいこと。生きていることは悪くない(笑)。

●ただ、正直に告白すると、まだまだ、血が通いきれていない気がしている。
人間としての血。生命としての熱。

ひとと心通わすための人間としての熱と血は、修行によって確実に枯渇する。というか、そうでなければ修行の目的を成就できない。

問題は・・・そのあとだ。
人との関わりに戻ってきたときに、どこまで俗に戻るか、俗と関わるか、だ。

中途半端な坊主というのは、修行を成就しないまま、中途半端に俗と関わる。
俗とたんまり関わりながら、「修行中」とのたまう。それは本来おかしな話だと思う。

まずは修行を成就して、「なすべきことはなした」(ブッダ)と言えることが、俗に戻る前提だろう。

そして、俗に戻るならば、きちんと自分の果たすべき役割、俗における方向性(目標)を明確に示す必要があるだろうと思う。

●では、私はどのような方向性をすえればよいのか?――

それがここ2年の大きなテーマだった。

それは、宗教・伝統べったりの仏教の方向性とはちがうと思っていた。

インドのように信仰をストレートに語ってすぐにつながれる社会なら、生粋(きっすい)の仏者のままで生きていける。でも、日本ではそのやりかたはちょっと難しい。

それはお寺や宗派をもたない単身の出家僧だから、というのもあるし、
何より、宗教・伝統としての仏教は、どこか大切な部分を落としてきているという思いがあるから。

たしかに、この国には、信仰心の篤い人は多い。宗教団体も、お坊さん方もたくさんおられる。

しかし、私の根本的理解をありのままに述べれば、かの方たちが依っているのは、
できあがったカタチ・伝統としての仏教であって、

ブッダ自身がたどり着いた真実、あるいはブッダが伝えた方法・境地とは、
微妙に(ときに大幅に)ズレてしまっているように見えてしまう。

本来、ブッダが説いた真理に、カタチは存在しない。伝統も、宗派もない。
今日僧侶・長老たちが語っているフォーマットつきの仏教(≒あらかじめの型があって、それを用いて語っている仏教)とはちがうのだ。

元々、仏法(≒ブッダが見た真理)とは、無色透明な、カタチすらなき、一点中の一点の真理。

だから、人々に仏法を伝えるには、それなりの方便(方法)がいる。

その方便としてなら、どの伝統も、たくさんの教義や習わしも、それなりに尊い価値を持っている。
活かせるならば活かせばいい。

ただ――その方便を自分自身が採るかというと、そうはならない。

なぜなら、一番大きな理由をいえば、めざす方向性がちがうからだ。

●私が求める方向性は、仏教のどの伝統ともちがう。
それゆえにこそ、日本に帰ってフリーで道を進むことにしたのだ。

いわば、私が求めるのは、仏教の真髄を、宗教という方向性にではなく、

この国・この社会の人々が共有しうる新しい価値へとつなげていくこと。

人としての正しい生き方・心の持ち方――それを仏教の世界では“ダンマ”と呼ぶ。

それはブッダの教えの中に、じつはまだけっこう未表現のまま眠っている。
正確には、“活かし方”の点でまだ開発されていない部分があるということだろうか。

その部分を掘り起こしてみせたいと思うのだ。

これは、工夫・創造の領域である。どこかの伝統・慣わしに従わなければならないという部分ではない。

たぶん今この社会に最も必要とされているのは、

正しい生き方・心の持ち方という、
人間が人間として生きていくうえでの“原理的な”部分をはっきりさせることだ。
宗教という色を着せることなしに。

そうすれば、その原理的な発想に基づいて、いろんな活動を広げていける可能性が出てくる。
人それぞれの持ち場・やりかたで“社会的な善”を増やすことが可能になる。

これは、個人が工夫していい領域だ。

私について言うなら、ブッダの教えという確固たる真理をこの命の土台にすえて、
そこから、人々が共有しうる善き活動を広げてゆきたいのである。

出家か在家か、仏教かそれ以外か、といった観念による線引きを越えて、
多くの人が共有でき、ときに何かを共同して新しい価値を創り出す、
そういう中立的な動き・因縁の一部として“はたらく”。

そういう“開かれた命”として生きていくのが、私の方向性なのだ。

仏教は、すべての仏者にとって“心の前提(土台)”だ。ゴールではない。

ゴールは、自分以外の誰かの幸せにある。
この世界で生きているすべての人々・命の幸福をゴールにすえる。

生きとし生けるものよ、しあわせであれ――。

仏道のゴールはその心一点に尽きる。そうではなかろうか。

●そういう自分自身が今感じているのは、平たく言えば、

仏者としての身の上を降りて(飛び出して)、自由に俗と交われ”ということ。

最近、ようやくその覚悟が固まってきた。
(多少の戒律違反が何であろう、夜にみんなとカキ氷を食べたっていいではないか(笑))

・・・そう思えるようになるまで、二年必要だったということ。

“にちゃい”になってようやく、自由に笑ったり、人と語らったりできるようになった気がする。

これから、もっともっと自由に動き、語らい、関われるようになろう。
いつでも手放せる覚悟はたもちながら。

禅はその境地を“遊び”と称する。いつくしみの心で融通無碍に遊ぶのだ。


●子どもがそのキャラクターを発揮するには、周囲との関わりが欠かせない。
会って、遊んで、泣いて笑って、ゆっくりとその子オリジナルの性格・個性が開いていく――。

くさなぎ龍瞬のキャラクターも、人と出会い、関わり、工夫・経験を積み重ねながら、だんだんその輪郭をはっきりさせていくことになるのだろう。
そうすれば、この言葉・この命に、もっと輝きが、熱が増すだろう。

そのことで、ブッダの説いた真理の本質もいっそう際立ってくる。

無色中立の、時代を超えて本当にうけ継いでいくべき
“幸福への方法”も明らかになってくる――。

そういう心づもりでこの道を行きたいのだ。この道に終わりはない。

というわけで、みなさん、
くさなぎ龍瞬とぜひ遊んでください。
いじっていいです。ボケかましたらつっこんでください(なんでやねん!みたいな)。

この夏の宣誓であります。

がんばりましゅ。