仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

“ネコ”のその後~助けてあげたいならホントの仏教で

9月12日(水)

こんにちは、龍瞬です。
残暑まだまだ厳しいようですが、反応しないでやりすごしましょう(笑)。

連休の神楽坂は ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆

●9月16日(日)午前9時半~12時 禅エクササイズ
●9月16日(日)夜18時~20時半 手放す&ラクに生きる心のテクニック(★夜ライブ)
~前回あんまり手放せなかったかもしれないので、素材を変えてもう一度……(笑)。
●9月17日(祝)午前9時半~12時 禅エクササイズ
~ぜひ方法と心の成長を確かめる場としてご活用ください――。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆

さてさて、禅問答のつづきです――。
(そんなのいらない、と言わずに、まあ聞いてくださいませ――(笑))

前回出てきた禅問答は、
「南泉斬猫(なんぜんざんびょう)」という
禅の世界では有名な問答です。

オリジナルのは、東西の堂衆が相争っている猫を、南泉和尚がつかみあげて言った。

「これぞ禅だという句を言ってみよ。言えれば助けてやる。言えなければ斬る」

誰も答えられずに、猫は斬られた。

その晩、弟子の趙州(じょうしゅう)が帰って来て、その話をしたら、

趙州は、「履(くつ)を頭に載せて退室いたします」と答えた。

南泉は「お前が昼間いたら、猫を救えたものを……」と言った、というもの。
(てゆーか、ほんとに斬っちゃった?Σ(`Д´il|))

趙州の「履を頭に載せて退室」の意味はいかに?というのが問題。
(この和尚がいかに○○かということではなく……)

たいていは、「???(チンプンカンプン)」だと思いますね。

実際、禅の本を見ても、
公案をマスターして“師家(しか)”という資格を得たエライ禅師が、

①「自分が戒律を破ることで、戒を守ることの大切さを身を張って説いたのである」

②「(これは)南泉の一刀で両断に斬却されたのは何物かという問題である。南泉の一刀の真の対象は、ほかならぬ我々自身の妄想分別、すなわち「自我」の根を断ち切ることにあった」

なんて答えてる……。

納得できますか? これが“悟った”人の言葉だと思いますか?

率直にいって、あまりに正解から遠い、と私は思います(言っちゃいます)。

なぜか? こういうのは、個人の理屈・解釈にすぎないから。

なんとでも言える。でも根拠がない。
ましてや、その中身が説得力を持っていない。

つまりは、心に残らない、空疎(からっぽ)な言葉でしかない――

それが私の素直な感想。

ではどう考えればいいか? 私なら、こう答えます。

③「猫を斬るというのは、殺生であり、戒律違反です。
となれば、和尚は僧侶失格ということになります。
ならば当然、私はあなたを師だとはみなしません。私はあなたの下で修行することはできません。
ですので、これをもって失礼いたします――という意図で、履を頭に載せて退出する」
(履を足に履いてしまえば普通に外に出るのと変わらないため、あえて頭に載せる。)

いかがでしょう? ①、②、③のどの回答に納得しますか?

私が、これまでの禅師たちの答えが「正解から遠い」と感じるのは、
彼らの答えは「仏教でも何でもない」からです。

屁理屈をこねて、何かたいそうな、深淵な真理を語ったように思ってしまっている。

禅の心とは、彼らが説くに、
理屈で答えられないものをぶつけて、思い込み・とらわれ・観念・はからいといった自我のはたらきを霧散する?
そうやって、悟りの境地を開く?

なるほど、ひとつの理屈ではある。
しかし、理屈をぶつけて壊せる程度の自我というのは、やはり理屈の産物でしかないでしょう。

悟りというのは、理屈を超えた領域にある、心理現象です。
それは理屈の領域ではなく、別の修行によって、“体験”するほかない領域なのです。

禅問答の世界というのは、この部分をかんちがいしているように思う。

悟りという理屈を超えた領域に、理屈の操作をもってたどり着こうとしている。

なんでそういう無理にこだわるかというと、悟りそのものをたぶん勘違いしているからだろうと思う。

これ以上詳しくはここでは語りませんが……でも古い禅問答というのは、目的と方法とをかんちがいしている部分がけっこうある。それが私の感想です。

禅問答は、中国では滅びてしまったし、日本でもそうとう形骸化が進んでいる。

“師家”と呼ばれる禅マスターは全国でもう八〇人いるかいないかというくらいに減少している。

これって、もしかしたら禅問答という文化が滅びる途上ということかもしれない。

人も、文化も、本質を見失ったときに、迷路に入り込む。出口が見つかる保証はない。

私がみんなに伝えたいのは、正しい目的、正しい方法で仏教を学んでほしいということ。

たとえば、仏教に関する問答というのは、仏教の精髄・本質を学ぶためにある。

その問答は、仏教の根本・基本に基づいて解けなくちゃいけない。

その問答を重ねることで、仏教の本質が深いところで理解できる、体得できるような中身でないといけない。

「南泉斬猫」であれば、仏教の基本中の基本である“不殺生戒(殺すなかれ)”と、論理的思考で、スルスルと解けてしまう。

趙州がどのような意図で「履を頭に載せて退室」したのかは確かめようがないが(記録にないので)、
まっとうな筋をたどれば、同じ結論にたどりつく。

ならばそれでおしまい――それで仏教の本質をひとつ理解できる。聡明なブッダの思考法というのも体験できる。

(ブッダがいかに論理的で、緻密で、すさまじいまでの正覚力=正しく理解する能力の持ち主だったかというのは、原始仏典を読めば分かります。10月からのシリーズ講座で紹介できればと思う。)

私が公案をみるかぎり、仏教の本質(最低限の知識)と論理で解けない問題はない。

ただ、同じように納得のいく答えを導き出している解説書というのは、正直、ない
たいていは小理屈で充足してしまってる……。

どれを正解と見るかは、人それぞれ。皆さん独自の答えもあっていいと思う。

ただ、本質をもって解けない問題というのはエセの問題だと言っていいのではないかな。

また、理屈・観念論ではなく“ブッダの教えに基づいて”答えるのではない限り、
その答えは仏教とは関係がないと思うのだが、いかがだろうか。

そんなセンスの悪い問題をいくらしゃかりきに解いたって、力はつかないよ、と思います。

ということで、本質に帰りましょう。

よりどころになるような本質を発掘し、身につけて、生きていきましょう。

(◎本日のポイント)

ほんとの本質に心がつながったとき、
人生に必要な課題・問題は、自由自在に、スルスル鮮やかに解けてしまいます。

そのとき、人生は自由になります。どこまでも楽しく生きられちゃうのです♪

これがほんとの禅の心!

(龍瞬にとっての、です(笑))