仏教講座スケジュール

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秋だ!

週末の寺子屋は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆
●9月29日(土) 午後2時~5時 禅エクササイズと法話
●9月29日(土) 午後6時半~9時 公開講座 自由な人生を手に入れるための5つの心得
●9月30日(日) 午前9時半~12時  禅エクササイズと法話
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9月24日(月)

●今朝、季節が完全に 秋 になったのを感じました。

風がすっかり脱力して、肌にやさしくなった。いい季節に入りましたね。

日本は、季節の移り変わりがくっきりしていていい。

インドで感じたことだけれど、日本人の折り目正しさというのは、季節の移り変わりの明確さが影響しているのかもしれない。

それと、日本人が清潔好きなのは、しきりに降るうるおいの雨が、塵ほこりを流し落としてくれるからなのかも。

日本の自然の美しさ、ひとの感性のこまやかさは、世界屈指のものだと思います。

この国のよさをちゃんと守っていってほしいな、と思ったりします(^‐^)。


●教室で出てきた話題ですが、

仏教には真理である部分と、それ以外の部分、つまりブッダ以外の人間が作り出した部分とがある」 というのは事実です。

原始仏典ひとつとっても、後世の創作・作り替えは、ありあまるほどあります。

各国のサンガ・比丘のしきたり・儀式にも、その国独自のものがたくさんある。

というか、日常レベルでは、そっち (ブッダが伝えた根本教義以外の部分) のほうがむしろ多いのではないかな。

仏教を説く側は、みんな 「これがおシャカ様オリジナルの教えだ」って、言いますよ。でも、実際はそれは正しくありません。

たとえば教室で話したことだけど、スリランカ仏教というのは、トップカーストしか比丘になれないという “締め出し” のサンガ法を、18世紀半ばに制定している。
作ったのは、ほかならぬ“仏弟子”たる長老たち。

これは、根本的な部分でブッダの教えに反すること。絶対にやってはいけないこと。

それでいて、日本の大乗仏教は仏教に非(あら)ず(自分たちのがホンモノ)、なんて言ってる。

率直にいって、批判できる筋合いではないのです(^。^;)。

私がひごろ思うのは、仏教というのはそもそも誰のためのものなのか、
仏教を説く者たちはいったい何をめざしているのか、ということ。

もし涅槃(さとり)をめざすことが目的ならば、その目的に集中する必要があるだろう。外に向かってあれこれ発言している場合ではない。(卒業したのなら別だけど)

社会改善(大乗仏教の言う衆生救済)が目的ならば、その目的に沿って身を律していく必要があるだろう。お酒・たばこ・異性も含めて、その行動には一定のルールが必要になる。

すくなくとも、“道” を標榜するなら、目的と現実とがかみ合っていないといけないのではなかろうか。

だけど、かみ合っている仏者というのは、多くない。

むしろ、比丘・僧侶以外の、ふつうの人のほうが、その点でウソがないようにさえ思う。(みんなすごく熱心。インドでも、日本でも)

真理を吟味する視点をもたなくちゃいけない、ということです。

これはブッダ・ゴータマの言葉とぴったりと重なるのです。


●インド仏教のことを日曜に語らったときに、
真理というのは、最初に置くものではなく、結果的に確かめられるもの」 という話をしました。

真理というのは、その時代・その状況・その関係・その現実に応じて、移ろいうるもの。状況依存的なもの。

その時点では真理として信じられていたものも、状況が変われば通用しなくなることがある。

科学的真理の場合は、この“恒常的な誤謬の可能性”――とたんに難しくなっちゃったけど(笑)、誤りである可能性はいつだってある、ということ――を前提にしている。

だから、実験や計算や観測でたしかめて、間違いがあれば、即座に修正する。新しい仮説をたてる。

そうやって、人間が知力をふりしぼって、徐々に、ゆっくりと、でも確実に、より確かな真理へと向かっていく。いまもその途上にある。

おそらく、人類が死滅するときまで、この 真理への真摯な探求 はつづく。

では、宗教的な真理はどうか?
永久不変の、絶対的な真理 というのが存在するのか?

語る口は人間のもの。考えるアタマも人間のもの。その真理を受け容れてきたのも、人間の関わり、社会。

すなわち、宗教的な真理は、人間を超えたところではいまだ一度も成り立ったことがないのだ。

その真理が、すべての人間・全時代に共通する 普遍・不変の真理 たりうるのか???

「たりうる」 と信じるのは自由。(原始仏典の無謬性、おシャカさまの教えの完全無欠性 を信じることも自由。)

だが、そう信じることに、はたしてどれほどのプラスの意味があるのだろうか。

そういう信じ方をしなければ、真理 というのは成り立たないものなのだろうか。

人間たちは、過去、これこそが唯一の真理であると信じ込んで、それがゆえに、他者が信じる真理と折り合いがつかず、衝突し、争いあってきた。

ひとつの“真理” をかたくなに信じ込みながら、いつしか、自分たちに都合のよいあたらしい解釈や儀礼・しきたりをつけくわえて、もともとはなかった部分をたくさん上に載せてきた。

もしその真理が、ほんとうに人間の幸福に役立つものなら、その信仰は、その人間・その社会・その国を、確実に幸せにしてきたはずだと思う。

だが現実はどうだろう? 今に伝わる宗教が、ほんとうに人間を幸せにしてきたのだろうか?

たとえばテーラワーダ仏教を篤実に信じるビルマの民は、ラオス、カンボジア、タイ、スリランカの庶民は、その仏教によって本当に幸福を享受しているのか。

なぜ彼らの現実に、あれほどの貧しさや、差別や、権力者からの抑圧 が存在するのだろうか。

古来つたわる仏教が、本当に人間を幸福にし、また永久不変の真理だとするなら、かの地の人々は、世界でもっとも幸せな人たちであってよいはずだと思う。

だが現実は、そうとはけっして言いきれない。

よくよく考えてみたいのだ。真理を証明するのは、この現実 こそではないのか、ということを。

真理とは、あくまで現実との関わりによってのみ、その正当性を証明できるものではないのか、と。

あくまで現実を前提において、その現実をこそ改善できる、人々の幸せに役立ちうる方法こそが 真理 なのではないのか、と。

人間は、けっして神ではない。真理をことごとく見通せる “完全知者” など、存在した試しはない。

(ちなみにブッダ自身が見ることのなかった現実はたくさんある。 それを問いとして引きなおすなら、たとえば、教えをいかに歪めることなく保つか。 仏教をインドの大地から滅亡させないにはどうすればよかったか。 貧しき庶民に一方的に(托鉢や布施などで)依存せずにすませる方法はなかったのか。 サンガをバラモンカーストに支配させないようにするにはどうすべきだったか。 比丘たちが俗化せず、真摯に悟りへの修行の身に専心できる環境をたもつにはどうすべきだったか――これらは今日も課題として残っている。 「仏教が衰退しつつある」という指摘が事実だとしたら、それはこれら未解決の課題が遠く近くで影響しているから といっていいのではないか。)

人間が 「これが真理だ」 と信じ込むことは、じつに危ういのだ。妄想・かんちがいである可能性を否定できないからである。

しかも、そのかんちがいは、腐敗、停滞、対立、衰退、といった、人間的な、人間ゆえの、問題を生む。

――だから、「これが真理だ」 という思いこみは 「必要ない」と私は考えるのです。

そんなものはなくても、本当の真理はちゃんと“機能する” 。

宗教の世界で語られてきた、人間を幸福にする思想・智慧を
真理と呼ぶか、真実と呼ぶか、ダンマと呼ぶか、道と呼ぶか、それは本質ではない。

ただ、唯一確実なのは、人間には、
自分の心の基盤となる、土台となる、純粋に合理的な 思考法 や 理解 が必要だ ということではないか。

それを見つけて、それを生きる―― それが人間に唯一なしうることではないのだろうか。

人間の命は短い。その限られた命しか生きられない人間に、「唯一絶対、永久不変の真理」 があると、どうして言うことができるだろう。

人間ひとりになしうるのは、“万人共通の真理” を見つけることではないのだ。むしろ、

“自分自身が心底必要とする真実” を見つけだすことである。
それをまっとうすることである。

それが確実な思考法だ。それこそが、生き方の原理であり、人生の前提である。

そして、その真実が、もしかしたら、誰かにとっての真実となり、多くの人にとっての真実ともなり、結果的に、その人の人生を超えたところで、かぎりなく真理に近い真実だと認識されることはあるかもしれない。

だが、そうした展開は、ひとりの人間が 現実の人生において 予想しうること ではない。そして、予想する必要もない。

たしかに、ひとはよりどころを求める。
特定の信仰、宗教、伝統、宗派、どの宗教家、比丘、僧侶、長老が説く “真理” こそが真理だ と信じたいひとびとの心境は、痛いほど理解できる。

しかし、同時に理解してくれたらと感じるのは、その真理は、あくまで 人間が説く真理 でしかないということだ。

でも、ほんとうの真理は、人間を超えたところに、存在しているのである。


その真理に通じたい と、もし人が本気で願うなら、どうすればよいか――。

それは、“真理を説く特定の誰か・なにか” にすがりつくのではなく、

むしろ、自分自身の心に、自分自身の現実に こそ戻 ことではないか。

自分自身を、もっと深く、真摯に、心つくして見つめること である。


――ここまで透徹して思考したときに、ひとつの逆説的な事実につきあたる。

過去、“宗教的真理” に覚醒した先人たち――ブッダを含む――は、みな、

その時代・その社会から、おのれを隔絶させ、まさに自らの内奥へと真実を求めた瞬間に、個人を超えた 真理 に到達した という事実に。

真理はつねに、おのれの心の中にある。


※秋だ!と思ってこれ書いたら、えらい土砂降りになっちゃった――(笑)。