仏教講座スケジュール

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9月のおたよりコーナー

今週の寺子屋は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆
●10月4日(木) 巣鴨 生き方として学ぶ日本の仏教
●10月6・7日  仏教のきほんを学ぶ講座 第1回
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9月27日(木)

すっかり秋めいてきましたが、私は衣替えもなく……(雪駄でペタペタ)。

なんだか生活がシンプルになってから、年をとるのを遅く感じるようになりました。時間がゆっくりと経っていく。

まだ9月なんだな、まだ日本に来て2年なんだな、まだ4○年しか生きてないんだな……という感じ。

禅をきたえると周囲がゆっくりと見え始める と以前お話しましたが、あれはいろんな意味で本当です。なんだか不思議な感覚です。


●今日はお寄せいただいた “おたより” の抜粋を ・・・・・・・・・・☆

○禅道場に来られた方の感想:

「サティ入れて、ラベリングして、その時はその感情は消えるけど、また感情は起きてきます。(☆)私の心の反応系が変わらないかぎり、私はパブロフの犬みたいに決まった条件に反応します。この反応系を変えなきゃ結局ダメなんだと思います。」

このひとは、最近ヴィパッサナーに出会った人です。

わかりますよ――

ひとつお伝えしておくと、「この反応系を変えなきゃ結局ダメなんだ」というのが、まさに、これまでの「反応系」どおりの反応ではないでしょうか。

――つまりは、「ダメ」という反応が、これまでの反応系を強めてしまっている、といえるかもしれない……。

つまりは、「考えてしまった」ということです。
ほんとは、そこで「考えない」(ふんばる)というのが、ヴィパッサナーのコツなのです。

「感情が起きてきた」ら、「感情が起きた」と気づくだけにとどめる。それがラベリング。

(☆)のところでストップすることなのです。そのあとの「解釈(考える)」は、ぐっと呑み込んで我慢する。考えない。

ひとはついつい考えてしまって、しかも考えてしまっている自分になかなか気づけないものなのです。

こうして指摘されると、「あ、そうか」と分かるでしょう?

だから瞑想道場では「インタビュー」をやるのです。指導役の僧侶に報告してアドバイスをもらう。

ぜひ、メールでも、道場でもかまいませんので、ふだんどのようにヴィパッサナーをやっているか、報告しにきてください。ほんとは、日記形式のレポートをくれると一番よいのですけどね。


○「山奥で編集の仕事をしています。
浜松の谷島屋書店で御著書を立ち読み。わかりやすく好感の持てる本でした。・・・いちばん親しみがもててわかりやすいように思いました。」

浜松で発見してくれたことがありがたい (買ってくれるともっとありがたい……(笑))。

(坊さんの場合誤解されるおそれもあるのだろうけど、) 
「親しみやすさ」というのは、大事かもしれない。
社交的な意味で大事というだけでなく、その人の心の自由さを示すとも考えられるから。

本来の仏教の修行というのは、“自意識から自由になる”ためのもの。

ブッダ自身は、究極の自由人だった。
すべてを捨てて振り返らなかったし、ひたすら修行に打ち込んで、自分だけの真実にたどりついた。

そのあとだって、誰に何を期待するでもなく、ただ自分が信じる教えを、じつにあざやかでたくみな方法で、人々に説きつづけた。

原始仏典を読んでみると、「オシャカ様」とひたすら崇めたてまつるような感じじゃない。「ゴータマ」とひとに呼ばせて平気でいた。

どんな人とも、友として向き合い、どんな宗教・社会階層に属する人たちとも、オープンに語らった。

ブッダがすごいのは、カタチの帰依や尊敬は微塵も求めなかったのに、その言葉の深さ・鋭さ・明解さに、聞く人がみな心開かれて、自然に、尊敬の対象になっていったことだ。

ひたすら、「正しく理解する」という流儀に徹して、微塵たりとも 「プライド(慢)」 を感じさせなかった。
人間がおちいりがちな 自意識の罠 (うぬぼれ・得意・承認欲など) からみごとに抜け出していた。

ブッダは、人との関係で、何かに執着するということがみごとになかったのだ。

私は原始仏典をひもとくたびに、ブッダの、開かれた、自由な態度・生き方に、心開かれる思いがする。

ああ、私も、こんな心のまま自由に生きていこう、と自然に感じられる。
(その意味で、くさなぎ龍瞬はナチュラルに「仏弟子/お坊さん」なんです。)


自由であると何がよいのだろう。たとえば――

つねに真理が生き生きと胸に感じられる。
ひとにオープンになれる。
説く言葉がやわらかく、生きたものになる。
どんな絶望的な孤独のなかでも動じることなく満たされていられる。
いつ人生が終わっても慈しみと感謝をもって受け容れることができる。

……そんな心の状態でいられる。そう思う。

こうした自由で開かれた境地というのは、

モノや評判への執着とか、
プライドとか (自分が正しくて他人は間違っているのだ、自分こそが敬われるべきなのだ) 

といった思い込み (「我見」) とは正反対の境地。

ふたつは両立しない。どちらかをとるしかない。

仏教を“修行して”みえてくるのは、「後者 (執着・思い込み) はいらない」 ということ。

ひとが思っているようには、こうした思いは心地よいものではないのだ。
むしろ、湧けば即その汚れに“当てられて”しまう、それくらいの邪念でしかない。

他方、「自由で開かれた境地」というのは、

一旦そこに立ってしまえば、それが至上の幸福だとわかる。すなおに気持ちよくいられるもの。

仏教を学ぶ・修めるというのは、この自由な境地の幸福を身をもって知ることなのだ。

自意識をリセットして、汚れのない心にもどる。

そういう心のもちぬしとして生きていけばいい。

そうすると、人さまに対しても、何にこだわることもない。

そのときどきで、いろんな “意味” を内心理解しながら、感じとりながら、自由に関わっていけばいいだけになる。

いかなるときも、開かれて在ること――が こころの生命線

仏教を生きる者にとって。あるいは、ほんとうは、すべての人にとって。


だから、「親しみやすさ」というご印象はありがたいこと。
これからも親しみやすい坊主としてがんばっていこうと思いマス。

ということで、これからも、ボケかまして、(ときに名前もまちがえて)、楽しい雰囲気でやっていきます。

新しく出会えた方々にも、これまでお付き合いいただいた方々にも、よろしくお願いします。

(親しみやすさとボケとはちがうように思うが……)