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命つなぐための法事

10月14日
ここ二週間は、法事と、新しくはじまった仏教講座と、カルチャーの教室。

NHK学園でも東武でも、新しい出会いがあった。

「仏教を、これまで生きてきて初めて 生きた言葉 で聞いた気がします。たくさん学びたいことが出てきてワクワクしています」と老婦の方。

(余想だけど、新しいことを年とって学ぶのは、女性の方が上手な印象が……。)

昨年春にスタートした頃に比べると、やっぱり、こちらの話の進め方や内容が すこし磨かれてきている のを感じる。

もちろんまだまだ、というか、善し悪しの判断はしないのだけど、
間をとったり、適度に脱線したり、受け止めたり、掘り下げたり、という、話の創り方が、以前より見えてきた。

経験というのは大事なんだな、と思う。
みなさんに育てられてきているとも思う (感謝合掌(^m^))。

そして法事。今回は、一回忌 (忌という字は正しくないと思うが。「一年会(いちねんえ)」なんてどうだろう)。

日本に帰って何度か勤めさせていただいたが、

故人と生者とを、「いかにつないでいくか」 が仏者の使命であると痛感している。

命というのは、死して終わり というものではない。

それは別に、あの世があるとかないとかという表層的・観念的な議論ではなく、

生者の胸に残る 喪失感・悲しみを和らげ、
あるいは故人になおわだかまる怨みめいた気持ちを解きほぐし、

二者の間の かかわり の意味をあきらかにすべき、という意味である。

たとえば、
故人の来し方(こしかた)を想っての ねぎらい と、感謝 と、報恩の念 (さずかったものとともにこれからを生きていくという意志)
をあらたにすること。

故人とのつながりを今もなお生きているということ。ともに生きるということ。その思いをあらたにすること。

そういう、故人が去る前とはたしかにちがうけれども、それでもなお つながって生きる という、
新しい関わりを創る のが、法事なのだ、と今の私はそう理解している。

たとえば、伴侶に先立たれて一年がすぎて、一日の終わりに美しい夕焼けを見上げたとする。

悲しみが癒えないときは、その空の朱(あかね)を見るだけで、涙が出てくる。

ただ、もしその瞬間に、故人を心に想って、「うつくしいね」 と語りかけられたとしたら、ほんの少し、こころは変わるかもしれない。

そのこころは、故人ともに生きている ということになるのかもしれない。

悲しさ・せつなさは、そのままに――。

でも、先立たれたひととのつながりは、なおたしかに生きている。
これからも生きていく。

そういうすごし方は、むずかしいだろうか。

仏教はいろんなことを教えてくれる。

命とは、肉体の死で終わるのではなく、“つながり” としてなお生きつづける、ということも。

ふと感じたこと――

幸いというべきか、日本に帰ってこの二年のあいだ、誰ひとり出会った人に先立たれていない。
みな健在である。ありがたいことである。

でもこれからずっとそうなるということはない。どこかで誰かを見送ることになる。
あるいは、自分自身が真っ先に先立つことになるかもしれない。

いつしか今生の別れというのはくる。必ず。

ただ、わたしは思うのだ。別れてもなお、つながりは生きている のだということを。

もし年齢順にこの世を去るのが摂理だとしたら、この命は、これから多くの命を見送ることになるのかもしれない。

しかし、この命はそのことをあるがままに受けとめる。

と同時に理解している――これが終わりではない ということを。

命は、会えなくなった命ともつながっている。命はどこまでも命とともにある。

この身をもってこの世に生きているかぎり、生きてある人たちとも、先立っていった人たちとも、ともに生きている。

先立っていったどの人のことも忘れはしない。

つかのまの旅に出た友人であるかのように、肉親のように、この命は、その人たちを想い、その人たちの存在を胸に感じながら、今日この一日を生きていくことになるだろう。

どこまでも、この命は かの人たち とともにあるのだ――。

そんなことを感じた法事の日。