仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
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心開かれる本当の学びを (新仏教講座スタート)

10月6日・7日の参加者で、里から連絡メールが届いていない人は、至急メールを下さい。

10月7日

昨日、今日と、仏教のきほんを学ぶ講座がスタートした。

思いのほかたくさんの人が来て下さったので、びっくりした(笑)。

●仏教に興味がある・学んでいるという人はたくさんいるけれど、

仏教とは何か? と聞かれて、明快に答えられる人というのは多くない。

これは、端的に、仏教を語る側(仏者)の責任 でもあるだろうと思う。

だって、仏者というのは、本来いちばん仏教に通じているべき人たちだから。

彼らが 「わかりやすく」 仏教を説くのは、最初の仕事だろうと思う。

それに、仏教をひとの人生・幸福に役立ててほしい、という思いがあれば(これまた仕事のうち)、

「どう語れば、仏教がその人の心に届くか・心に残るか」 を真剣に考える(工夫する)だろう。

これだけ多くの人が仏教がわからないと言っているのに、なんで安心している(ように見える)のか。


●相手の心に残るかたちで真実というのは伝えなくちゃいけない。

でないと、その真実は、関わりの中で意味をもたなくなる。

仏教を語る側は、信じれば救われるんだ、わからないのは無知なんだ、というよくある 宗教的な傲慢さ に落ちてしまうし、

仏教を必要とする人たちは、いつまでも 「?(うーん)」 が続くことになる。

そんなのイヤイヤ (≒正しい状況ではない) である。

この場所で
「仏教はオープンな方法なんだよ、
信じる・信じないではなくて、
自分のこころ・人生に役に立つと思えば使ってみればいいんだよ」

とお伝えしているのは、

淡泊さではなく、ひとそれぞれの人生への 最大限の愛情(友情・はげまし) なんだと思ってる。

ブッダ自身が、

「私にはこれを説くということがない」
「過去の信仰を捨てよ」
「教義や伝承の学問では目的を遂げられぬ」

と語っていたのは、

彼独自の愛情(いつくしみ) ゆえなんだと考えることができるだろう。

もし自分にとっての有利 (経済的利益やプライドの満足など) を図るのではなく、

自分自身にとっての真実を “確信” していて (つまりは他者の承認も、新しい教義も、もう必要なくなって)、

ただひとつだけ、世界へ、ひとへ、向けるべき思いとして 慈しみ を保つならば、

何のこだわりもなく、特定の伝統や思想にとらわれることもなく、

ただ相手を理解して、うけとめて、かんじとって、

その相手に最もふさわしい 智慧 (=その状況において最上の効果をあげる方法) を伝えることになるだろう。

仏教とは、無我=自分から自由 になるための思想である。

その境地においては、慈しみと智慧とは同時に生まれてくる のである。

原始仏典を、「ブッダの思考法」 (ブッダはどのような理解・思考の仕方をしていたのか?) という視点をもって読んでいけば、

ブッダがまさにそういう開かれた、じつに合理的な、自分の思惑から解き放たれた自由の境地から、教えを説いていたことが見えてくるだろうと思う。


●そういう話をしていたら、教室で質問があった。

「サンガの中の厳密な戒律は、そういうオープンなスタイルとは矛盾しないのですか」 と。

これについては、こう考えるといいのではないか――。

ブッダは、ひとを選ばず、苦しみ Dukkhā から自由になる方法を説いた。

その自由・安らぎの究極にある体験が 悟り・涅槃Nibbāna と呼ばれるものだ。ブッダがめざしたもの。たどりついたもの。

もし、その体験をしたいと思うのならば、ブッダの弟子になって実践してみることだ。

ブッダの方法は誰に対しても開かれている。「来たれ、みよ、自ら試してみるがよい」 Ehipassiko

もちろん、その方法を実践して目的を遂げようと決意したならば、必要ないものは一切捨てなければいけない。
そして、ブッダの示す方法を忠実に実践しなければならない。

その意味で戒律(きまり)は必要になる。

ブッダは、弟子たちが目的から外れること・怠ることに、きわめて厳格だった。だって、そもそもそれを目的として、弟子になった(サンガに入った)のだから。

当初の目的にてらして、戒律に反するような生き方は筋が通らない。

むろん、強制ではない。ひとつの道をまっとうするか、途中で降りるかは、ひとの自由である。

その意味で、ブッダはかぎりなくオープンだった。

ひとと出会う時点で、その人が教えを共有するかという点において、いつその道を降りるかという点において、ブッダはいっさい縛りを設けなかった。

ブッダが厳格であったのは、「あなた自身が選んだその目的に忠実に生きているか」 という点においてであった、といっていい。

その意味で、ブッダの流儀は、オープンであると同時に厳格でもあったのだ。

オープンさと厳格さとは矛盾しない。相手がどう関わりたいか、なにをめざすのか、によるのだ。

その意味で、オープンさと厳格さとは、愛情 (いつくしみ)の両面 であるといってもいいかもしれない。


●この場所では、特定のスタイルや思想にこだわることはしない。

極端な話、仏教でなくてもいい、というくらいのフリーな前提から始めている。

これを信じなさい (≒押しつけ)、
これこそがお釈迦様の教えです (≒権威づけ)、なんていう言い方はしない。

そんなことをしなくったって、ブッダの教え・思想の真価は、心の髄まで私は知っている。

現実の課題・テーマからスタートして、智慧を働かせてひとつの思想を構築していけば、それがブッダの教えと見事に重なることを理解している。

(私の感覚としては、数学の証明問題を一行目から書き起こせば、何度やったって、同じ結論にたどり着く、という感じである。と同時に、別の前提、展開、結論の可能性にもつねに心は開かれている。)

第一回めに来てくれた人たちには、

自分なりの目的意識をもつこと (実生活においてなにを望んでもいい)、

いっさいの前提 (これまでに学んだすべてのことも含めて) を捨ててみること、

自分の目的に照らして、何が最も合理的な方法(考え方)なのかを考えながら学ぶこと、

という話をした。

戸惑った人もいるかもしれないけど、ほんとうの真理・ほんとうの智慧というのは、そういう“前提フリー”の合理的な視点によって作られていくものではないのかな。

ぜひ、焦ることなく、ゆっくりと、でも自分に誠実に、

“自分自身のテーマ” と 仏教 とをすりあわせてみてください――。


●この場所で学べる仏教は、伝統としての仏教からいったん切り離して、組み立て直した新しい仏教だ。

この時代・この社会・この生活・この自分、から始めて、
仏教を、合理的で役立つ、現実に通用する 智慧 として活かすにはどうするか?

仏教のどの伝統、ほかのどの信仰とも相反することなく、
幸福への共通の方法、オープンリソース として活用するにはどうするか?

そういう目的意識(視点)に基づいて、話を組み立てていきたいと思う。

この視点こそが、無私と慈しみ から自然に演繹される (≒導かれる) 方法なのだ。

ほんとうの真理にたどりつくための思考法。仏教の純粋なる精神である。

そのうち、このあまりに開かれた思考のスタイルこそが、古代のブッダのそれとかぎりなく重なっていることに気づいてくれるだろうと思う。

――とまあ、これは私自身の余分なはからい(期待)であって、みなさんがそうと信じ込む必要もないのだけど(笑)。


ともあれ、仏教の学び方の一例として、これからの話にお付き合いいただければと思います。

みんなのおかげで、よきスタートとなりました。

よき教室にしましょう。よきつながりの輪を育んでいってくださいね。