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1DAY仏教!イン西荻窪

3月20日(祝日)は、西荻窪にある劇団朋友さんの稽古場をお借りして、
1日仏教体験を企画。

朝は、通常の座禅エクササイズ。
といっても、ふだんとちがって入門レクチャーなしのいきなりの実践。

はじめての人はどれくらいついてこれるかと思ったが、
けっこう頑張ってくれた。

「作り立てのロボットのように。生まれたての赤ちゃんのように。

歩くってどういうことなんだろう? 足を動かすって? どんな感覚がするんだろう?」

と、心をゼロにリセットして、確かめるように、注意深く歩く――。

ひとは「歩く」ということに慣れきってしまって、「歩く」という行為をただの「観念」として処理するようになってしまっている。そうした硬い心では、「歩いている」という生の感覚を実感することはむずかしい。

本当は、一歩、一歩がまったく新しい体験であるかのように、心の目を見張りながら歩いてみるのがよいのである。そうすると、思考・観念の領域を飛び越えて、感覚の領域に入っていきやすくなる。

昼休みもなるべく静けさを保ってもらうようにする。
(しゃべっちゃいけないというのがキツイという声も。沈黙は「おすすめルール」ということにしようか。)

午後からは、メントレ座禅――これは禅や仏典の言葉を壁に貼り、眺めて自由に考える時間を15分、座って瞑想する時間を15分、それを何セットかやるというもの。

正法眼蔵の言葉をわかりやすくかみくだいたものを何点か。

道元は、高飛車すぎて言葉が難解になってしまっているが、ところどころとてもやわらかい(禅的な)思想を語っている。その本質部分を詩的に表現すると、「けっこうイイコト言ってるなあ」と思える部分がかなりある。

みなに座って瞑想してもらって、その間に、禅や仏教の話を説く。

これはまさに、道元、そしてその師である宋の禅師・如浄(にょじょう)がやっていたスタイル。

暗闇の中で目を閉じて法の話を聞く、というのは、明るい場所で目を開いて聞くよりも、心にしみいるところがある。

◇午後3時半からは、フリートーク。ここから参加してきた人たちも。

あるひとは、仏教関連の本を持ってきて朗読。

いわく、大雨に濡れている地蔵さんの前を通りかかった村人は気の毒に思って古い靴底を、地蔵の頭に載せた。

その次に通りかかった村人は、地蔵の頭の靴を気の毒に思って、その靴を持って帰った。

地蔵さんは雨に打たれて、そのうち朽ちてしまった。さて、どちらの村人が正しい行いをしたのか?というような問い。

聞いてておもったのは、「動機」の部分。
仏教はまずは心をみるから、村人の「動機」を見ることになる。

この場合、二人とも、気の毒という慈悲の心に基づいて、靴を載せたり除いたりした。
動機の点では、二人とも正しい行い・善行をしたということになる。

ただ、動機が正しければどんな行いも正しくなるかといえば、そうはならない。「おせっかい」はいい例である。

差し出す側としては、「動機」の前に「正しい理解」がなければいけない。

状況を理解して、相手をよく見て、本当に必要としているか、それが有益(役に立つ)かを考えてから、動機を行いに移す――それが仏教的な正しい行いということになろう。

その本には、ダライ・ラマの返答が載っているそうで、やはり「動機」を指摘しているそうだ。仏教だからやはり見る部分は共通しているのだ。

ただ、考えの道筋が完全に一致するかというと、そうでもなさそうである。

地蔵さんの頭に「古い靴底」を載せる行いはいけないことか。

地蔵からすれば、村人が差し出したのは「古い」「靴底」では、じつはない。

仏の目からみれば、「古い」も「靴底」もない。それらは世俗の見方にすぎない。

地蔵さんからすれば、二人の行いは、「気の毒」という慈悲の発露である。
たぶんどちらに対しても、ありがたい(善し)、という言葉を向けるだろう。

仏教というのは、相手の心をとにかくよく見るのである(たぶん一般の人が想像する以上によく見ているところがある)。

もし相手の心が、けがれなく、慈悲あり、真摯誠実であるなら、それを善しとするだろう。

もし相手の心が、怒りあり、無意味な妄想あり、貪りの心多く、邪念に満ちていれば、べつに裁きはしないけれども、「汚れているね」とありのままに見て微笑んでいるだろう。

仏教の心というのは、ただ見る、ことに尽きるのかもしれない。

善き行いとは、正しい理解と、善き動機があって、その行いを相手が善しとして受け入れたときに成立するものではないか。

ほかの人たちからも面白い質問・感想が聞けた。今回のように本を朗読してもらうというのは大歓迎である。できれば、そこから会場の人々に議論してもらって、私も一緒に考えて、そのうえで本の解説を聞いてみる、という形でやると面白いだろうと思う。

終わった後は、ファミレスに行って反省会。これもまた楽しかった。いろんなアイデアが出てきた。

1DAY仏教は、これから定期的に開きたい。入場無料だから、いろんな人たちに来てもらえればと思う。どんな話題も歓迎。実のある話ができればと思う。

次回は6月30日(日)を予定。決まったら告知しますね。