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生きがいのシフト 「やりたいこと」から「○○○こと」へ

今日(3月30日)から始まった、無料生き方相談会
(「龍瞬の部屋」とでも改題しようかな)。

今回出てきた話題の一つが、

「最近、何事も楽しめなくなってきた」
「自分が何をやりたいのかわからなくなってきた」というもの。

「やりたいこと」って、みんなにはありますか?

今日お伝えしたのは、「やりたいことはなくてもいいんじゃないのかな」ということ。

仏教的な理解に照らして考えると、やりたい、というのは、欲求の発露(あらわれ)だから、
その時点で、「あやういな」と考える。

仏教を学んでいくと、そういう発想が出てくる。

欲求を満たして満足、というのは、ひとが生きていく主要な動機だろうけれど、

たとえば、「認められたい(褒められたい・評価されたい)」という欲求が心底満たされることって、ほとんどない。

そして、その欲求が満たされることは、年をとればとるほど難しくなっていくかもしれない。

ある人は、昔、志望する大学の学部に進めなくて、それが今も欠落感になっていると語る。
「今からでも受験勉強して入りなおそうかな」と考えることがあるとか。
三〇すぎて結婚もしていて、だけどそんな思いがよぎるそう。

かつて抱いた願望・欲求がかなわなくて、それが欠落感(何かが自分には足りないという思い)になって腹の底に居座っている人って、かなり多いのではなかろうか。

その状態が、まさに「執着」。
心に残っている重石(おもし)のようなもの。あるいは腫瘍のようなもの。

抱え続けるかぎり、心はちくりと痛む。
どこかに影ができる。
周りの世界との壁ができる。
すっきりしない感がある。

その欠落感がうずくたびに、ひとは、「何か新しいことをやろう」と考えたり、「あの頃の夢・目標をもう一度追いかけてみよう」と考えたりする。

もちろんそれで満足が得られれば、ひとつの美しい生き方になりうるよね。

ただ、過去に抱いた欲求を仮にこれから満たせたとしても、たぶんその喜びは、自分が期待するほど強いものじゃない。

だって、昔とは立っている場所がちがう。歳も重ねている。

かつて夢中だったおもちゃを再び手に入れたところで、昔と同じように楽しめることはないのと同じかもしれない。それが現実。

たぶん、過去の欲求を引きずり(執着し)続けても、この先、満足が増えていくことはない。

むしろ、現実への空しさとか、「やりたいことがわからない」という迷いの感覚が増えていくのだろうと思う。

仏教は、心のからくりをよく教えてくれる。

欲求・願望って、じつはあんまり上等な発想じゃないんだよ、とか、
それにしがみつく限り、心は必ず不満を抱え続けることになるんだよ、とか、

新しい発想で生きていくほうが、この先幸せになれる可能性は高くなるんだよ、ということを教えてくれる。

今日来た人は、私が今たずさわっているインド仏教徒の生活改善プロジェクトを
「やりたいからやっている」と思っていたそうな。

でも、私は(正確にいうと) 「やりたくてやっている」わけでは全然ないのです。

やりたいとも、やりたくないとも思わない。ちょっと違う動機で取り組ませてもらってる。

私は、かつて、やりたい!という我欲・願望がめちゃくちゃ強くて、その分「あれもこれも」(それを手に入れてない自分はまだまだ完全ではない!)という思いに駆られて自分を見失っていった痛い経験がある。

その果てに仏教に出会って修行して、「やりたい」というエネルギーのアホらしさ(実体のなさ)を思い知ったところがある。

だから、今は「やりたい」という思いそのものに、繊細な警戒感をすぐに持つ。こう考える――

やりたいはあやうい。やりたいは動機にならない。


(※正直、本当にやりたいことがあって、それを満足できる才のある人というのは、まっすぐにその道に進んで結果を出しているでしょう?

やりたいことがある+(プラス)満足できるだけの才がある、というのが世俗的な成功の必要条件。

かつての私には、どちらもなかった、と今は分かる(笑)。つまりは、生き物の種類がちょっと違ってた、ということ。

今「やりたいことがわからない」と言う人もまた、生き物の種類が違うんだと思う。きっと、違う発想をした方が幸せになれる人なんでしょう。)


◇じゃ、何を動機にしているかというと、「できるかどうか」。

今私がやっている日本での活動も、やりたいからやっているというより、自分にできることだからやっている。

インドのプロジェクトもそう。できることだからやっている。

できるかできないかという発想から入ると、「やりたい」という動機はあまり影響力を持たなくなる。

それより考えるのは、「これって人の役に立つのかな?」ということ。

自分にできることで、人の役に立つことであれば、もうそれだけで、やる動機としては十分。

それがベース(土台)にあって、その上に、毎日のちっちゃな喜びを乗っけていくという感じ。

ちなみに今のちっちゃな喜びというのは、朝早起きして本を読んだり、新しくさずかった電子レンジで玄米を炊いたりというもの(ほんとおいしいのです!)。

「できること」をベースに人生を組み立てると、この先特に大きな出来事が起こらなくても満足できるようになるのではないのかな。

この毎日をただ生きていられるだけで満足、というか、(満足というのはえてして欲求の満足を意味するから)

納得」できること。

それが生き方の本来のような気がする。

定年退職でも、途中解雇でも、プータローでも、フリーターでも、ニートでも、ワーキングプアでも(一つめを除いて、どれも私は経験ずみかも(笑))、

「関係がない」。

ただ今できることをやるだけで納得するようにする。

こないだ教室で伝えた「私は私を肯定する」という思い(落ち込まないためのおまじない)も、この納得感の表現といえる。

やりたいことを追いかけて、その満足を求めるという発想を切り替えて、

できることをただやって、それだけで納得する、という発想で生きるのです。

これ、難しい人には難しいみたい。「そんなふうに生きるなんてできるんですか?」という人もいる。

でも、確かにいえるのは、

やりたいことの満足を求めてこれまで生きてきて、
もし今現在満足できていないのなら、

その動機でこれからを生きても、
たぶん不満足がますます溜まっていくだろう、ということ。

それは、自分にとっての道ではもはやない、と考えた方がいいのかもしれない。

これまで追いかけ続けてきた、「やりたいことの満足」というのは、今を楽しめない人にとっては、
いわば腹の底に残された重石・腫瘍のようなものかもしれない。

ならば、その重たいものを取り除いてはいかがだろう。

その満たしきれない思いを、心再びうずくたびに、

「まだこういう心の癖・病気が残っているんだな」と理解して、
「でもこれはかんちがいなんだな、そろそろ捨てていかないとな」と思い直して、

ただ「できることだけで納得できる」心を育てていくようにする。

そういう処方を、私ならお勧めします。


◇こういう発想の切り替えは、過去の自分から見たら、ちょっと寂しいものかもしれない。

(とある女性は、この話のときに「それでもEXILEは好きでいたいんです!」と訴えていた。それは可能だと思うが……^^;)

でも、心というのは、寿命が本来あるのです。
これまでの自分をそのままに生きていくことはどこかで無理が出てくる。

「最近楽しいことが乏しい」「何がやりたいかわからない」という人は、
それまでの「やりたいことを追求する自分」に寿命が来た、ということかもしれないのです。

私の場合、やりたいという欲望を肥大させ続けて、最後は自分が何をやりたいのかまったく見えなくなって、インドに渡って出家しちゃった。

で、かつてのやりたい病の自分はほんとに病気(かなり重症)だったんだ、ってようやく分かった。

ああ、なんてアホだったんだ、袋小路に入っちゃたのは道理ではないか、とよくよく思い当たった。

だから、今やりたいことが分からなくて迷っている感のある人は、

「そっか、もうこれまでの自分は寿命なんだ」と思ってくれていいんじゃないかと思う。

人それぞれにもちろん立っている場所は違うけれど・・・でも根っこの部分は共通しているかもしれないから。

そろそろ次の生き方を始めよう、って考えてみてはどうでしょう。


◇生き方を学ぶ上で、仏教はかなり役に立つし、面白い。

この(仏教の)世界には、常人には真似できないくらいに、我欲・執着の激しい、とんでもない連中がごろごろいるから(空海も、日蓮も、一休も……ゴータマ・ブッダ自身が病的な執着に悩まされたおひとだと言ってよいだろう)。

最近は、教室に、新しい生き方を探して仏教を学びに来る人たちが着実に増えてきたと感じる。

彼らと一緒に、もっともっと本音の議論をしていきたいと思う。


「やりたいこと」から「できること」に動機をシフトして、しかもできることに納得する。

そういう立場に立つと、不思議とパワーも湧いてくる。ご縁にも恵まれるのかもしれない。

そのご縁の一つで、今、再びインド行きの話が出てきてます(感謝!)。

これはもう、「やったるでえ」という感じである。
とことんやり尽くしたる!という意気込みでいる。


というわけで(どういうわけかよく分からないが(笑))、

新しい生き方を今年はもっと一緒につきつめていこうではあーりませんか!

生きてりゃ、何かができる。
何かできるというだけで、楽しいじゃないですか。

この一年、楽しみましょう!