仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

春二番 (人生の冬を越えて)

春といえば、異動の季節。

仕事つながりの人も、この時期、大幅に勤務先・ポストを換える。

カルチャーでお世話になっていた方々が、何人か辞めてしまっていらしたのでびっくり。

彼女たち(みな女性)が見つけてくれなければ、今の仕事・生徒さんたちとの出会いもなかったわけで、とてもありがたく思っている。が、

ただ、いつの間にか辞めてしまっていた――というのが、ちょこっと寂しい。

(もちろんこういうときって、むしろ伝えないほうが自然なありかたなんだと分かるのだけど)

できれば、最後にひと目会って、ありがとう、と伝えたかった。

そこではたと思ったこと――

「ああ、あんときの自分は、こういう思いをもっと相手にさせていたのかな」、ということ。

自分は、かつて何度も、ふいっと行方をくらましてきたのである。

そのおかげで、十代のころ出会った人たちとは見事につながっていないし、
大学時代の友たちともまだ関わりようのないところで過ごしている。

何より、三十代半ばをすぎてインドに渡るときにも、
誰ひとりにも行き先を告げないで、ふいっと日本を離れてしまったくらいである。

日本に帰ってくることはないかもしれない、と覚悟していたから、あのとき、ある意味、自ら無になることを選んだに等しいのかもしれない。

まったく――あまりある水くささ、というかそれを超えて、不義理すぎる不義理である。
もしかつての私に芸名をつければ、「不義理デラックス」というところであろう(なんじゃそりゃ)。

かつての自分のナゾの失踪行動は、はて、どのような心理だったか。

周囲への違和感、疑問――怒り、失望――こんなところにい続けて何の意味がある?という過剰に意味を求める欲求――

ちらと振り返るだけで痛々しさが疼くくらい、
あれこれと烈しく求めすぎ、傲慢であり、そして非礼であった。

そういう直接的な反応とは別のところでもうひとつ、
失踪を促す動機めいたものがあったような気がする。それは、

誰かにこの思いを打ち明けてしまっては、
自分の求める心に水を差されるのではないか(もっと言えば、汚されてしまうのではないか)、という思いである。

人に相談したり、これから何かをするということを語ったりすれば、必ず相手のリアクションが返ってくる。ただ、そのリアクションというのは、けっして自分の感性を肯定してくれるものではないような気がする。伝わらないような気がする。肯定してもらったところで、今感じている心の渇きが癒されるわけではない。それに自分がほんとのところ何を求めているのか、自分でも今ひとつよくわからない。わからないうちに言葉にしてしまっては、答えが遠ざかってしまうような気にもなる――。

できるなら、今のこの思いは誰にも明かさないで、そのまま新しい場所に移って、自分が見たいもの・求めるものにかぎりなくダイレクトに(直接)向き合いたい、触れたい、近づきたい、という思いがあったような気がする。

妙に潔癖、完璧主義なところがあったかもしれない。自分の思いに対して――。


さて今の自分はどうかというと、もうかつて自分が求めていたものは見尽くした、という感がやはりある。もう、“自分の思い”、というのは、生きる上での動機にならない。

仏教には、命は三つで構成される――それは、心と体と関わりである――という理解がある

(これは縁起論をも採り入れた龍瞬独自の理解。南方仏教の伝統では、心と体のみを究極の真理=アビダンマとする))。

今の自分にとっては、もはや、自分の心をみきわめる、という動機はない。
失望もなければ、怒り・葛藤というのもない。
自分にとっての真実を「関わり」の中でどう顕(あらわ)していくか、生かしていくか、という発想しかない。

だから、関わりこそが、人生の土台になっている。

これは、自分の心ばかりに振り回されてきた過去の自分とは、まったく正反対の、異世界にある自分。関わりこそが人生の意味をつくる、という自分である。

あったりまえだと思われるかもしれないが、かつての私には当たり前ではなかった(のです)。

関わりそのものがみな違和感の対象になってしまう、どうしようもない暗く錯綜した心、自分、があったのだ。それが抜けた――。

だから、今は、関わりを生きるだけで満たされる。

なんて幸せなこと――。

新しい事務所には、ちらほらと友たちが来る。老若男女さまざまである。

こないだ泊まっていった男性なんて、耳栓をしても響いてくるくらいの、人間を超えたいびきを発していた。「いびきじゃなくて、“いなり”だね」と思ってしまったくらいの音。本人云く、かつて一緒に泊まった同僚に「なんであやまらねえんだ!」と翌朝怒り出されたらしい(本人「??」)くらいのいびきである。

それも楽しい、のである。

ひとはみな、幸せを求めて生きる道の友である。

関わりそのものを幸せにできるようになった因縁に合掌したい。

私の心は今、ようやく春を迎えている。


みなが新しい場所でよき日々を過ごしていますように――。