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「タイのあんかけ」にひそむ仏教的な真実とは?

4月13日
いよいよ仏教の学校が始まった。

通年シリーズの仏教講座は、今年がスタート。

伝統や信仰、宗派といった形・敷居にとらわれず、
実用的(実際に役に立って)、知識・教養も身について、
年代も職業も異なる大人たちが顔見知りになってひとときを共有できる、というのは
仏教というフィールドではめずらしいことではなかろうか。

春学期の最初のテーマは、「つながり」。

仏教の世界では、因縁、縁起、法縁、などと呼ばれてきた。

スリランカなどに伝わるテーラワーダ仏教の世界では、
因縁・縁起というのは、もっぱら「心と体」に起こる現象について語られる。

たとえば、音(という空気の振動)と耳(という感覚器官)が接触したときに、
心は反応する。反応が結生(けっしょう:持続する心のエネルギー)を生む。

その結生の産物が、感情だったり、記憶だったり、欲求だったりする(どれも続くよね)。

その感情(誰かに腹を立てた時の怒りとか)、欲求(~したい)が残って、
心を刺激しつづける状態を「執着」と呼ぶ。
その執着が、悲しみや落ち込みや不安や焦りや失望や怒りなどの苦しみを生む・・・
などと説明される(ここはかなり大胆にデフォルメして描写してます)。

テーラワーダ仏教が、心と体という内なる現象を語るのに対して、

日本に伝わる大乗仏教では、
森羅万象、すべての物事・存在が、因縁(つながり)によって成り立っていると説明する。

しかもその因縁は、たえず変化しつづけて留まるところがない。
すべての存在は、たがいに影響しあい作用しあって、変化しつづけている。
何一つ、変わらぬ姿で存在しつづけるものなどない、という。

その因縁論を、人間の心と体のみならず、宇宙の果てまですべての生命・存在にあてはまる真理として語るのが、大乗仏教である。

その大乗仏教の代表的な経典が「華厳経」(けごんきょう)。

今回は、その経典の一部を紹介した。

「世界にあるすべての存在は、瞬間瞬間に生まれては滅する流転の現象である。

それらはことごとく因縁から生じている。

正しく理解する者は、すべての存在は、変わり続ける無常にして空(くう)なるものと知って、執着を離れる」

「空」というのは、さまざまな意味で語られるが、「変わり続けるもの」という形容語だとここでは理解してもらっていい。

「因縁」とは何か。たとえば、あなたが何かおいしいものを食べたとする。

そのときの「おいしい」という感覚の実体・正体は何だろう?

「おいしい」という感想・判断なのか? その判断はどこから来ているのか?
おいしさとは何なのか? 素材の良さか? 料理人の腕の良さか? 食べている人間の味覚なのか?
そのとき、食べているものは「食べ物」なのだろうか?
食べているのは、「わたし」なのだろうか?
どこそこのお店で、何という名前の料理を食べている、という言葉で説明がつくものなのだろうか?

たとえば先日訪ねた三重松阪の友人の料理屋で、私はその夜「タイのあんかけ」を食べた。
最初に言っておこう。むっちゃ美味であった!!!!!

何も言葉を発さないで、目をつむって、ただ注意深く、口の中に入ったタイの肉味を感じ取る。

噛むにつれて、肉味が粉状になり粒子となり、その瞬間ごとに味わいというものが精妙に口の中に広がっていくのを感じる。

このとき、私が感じているものは何か? 味? タイ? 味わっているのは誰? 私? 私って誰? 舌じゃないの? 味覚細胞じゃないの? この「おいしい」という味覚は、一体何によって生まれているの????

と考えてみる。

どこかの海に、かつてタイの卵が漂っていたのである。それが孵化して、稚魚になって、大海原でプランクトンを食べて、光を浴びて、だんだん大きくなっていった。

それを、たとえば日本のどこかの町にいて、家族を持って、毎日いろんなことを考えながら生きている漁師さんが、とある日の漁にて釣り上げたのである。

それを漁港に持ち帰って、セリに出す。そのセリに来た業者さんや料理人が、たまたまそのタイを競り落とす。

そのタイには、海に満ちている栄養や光や酸素という因縁が現れている。因縁の結晶である。

海の水温や、漁船から漁港、そして店、料理屋にまで運ばれる間の、保温状態もまた、その肉味に作用しているはずである。

その肉味を、私の友人が、それまでの調理人としての経験と才覚とその場のひらめき・直観といったもので調理をする。

それを食べる側のこの私の心にもさまざまな感情や体験や、その場限定の心境というものがあり、肉体の状態(たとえばどれくらい空腹だったか、疲れはあったか、体温はどれくらいか、タイのあんかけなるものが初めてだったことの心理的影響はどれくらいだったかなどなど)もまた作用していて、

その最果てのこの瞬間の「タイのあんかけ」の味わいというものが成り立っている(ふう)。

目をつむって、言葉を発さずに、ただ「味わっている」この状態に、「わたし」というものはあんまり関係がない。肉味が口に入る。噛む。味が生まれる。肉味が味の粒子へと変化していく。燕下(えんげ)とともに、意識の闇の中へと味が消えていく――。

この瞬間に生まれているのは、「タイ」でも「あんかけ」でも、「友人の料理」でも、「おいしさ」でも、「味わっている私」でもない。

正確には、「因縁によってこの瞬間に成り立っている現象」 とでも呼ぶしかないものなのだ。

(そもそもかつて足を踏み入れたことのなかった三重松阪にその日私がいた、ということ自体、これまた言葉では語りきれない絶妙なる因縁の賜物である・・・・考えてみればなんとも不思議な出来事ではないか。)

「因縁」 なのである。ここに生まれているのは、「因縁」 そのものなのである。
本当は、私たちの人生そのもの、「このわたくし」という存在そのものも、

「わたし」という自意識とか、名前とか、職業・肩書きとか、年齢とか、家族構成とか、過去の体験とか、性格とか、そういう言葉=観念 によって表現できるものでは、ない、のである。

その場その瞬間で、因縁によって成り立つこの自分という現象があって、

その現象が、また別の因縁――それは友人とか、家族とか、職場の人とか、その日の気温とか天候とか、道で目にする景色とか、入ってくるニュースとか、聞いている音とか、ずっと頭から離れないあの思いとか、不意によみがえる昔の思い出とか、明日の予定とか、今進行中のあの仕事・あの趣味とか、今何時とか、今日の夕食は何にしようかとか、携帯をいじっているときの頭の中身とか、はてまたそういう日常を超えて、一生直接見かけることのないだろう数十億人のひとびとのこれまた言葉にできない無限精妙な頭の中とかその行いとか、そういうものごと・すべての存在との「因縁」によって、

今この瞬間がある――――――ということかもしれないのである。

たしかなものは、本当は何もない。もしあるとしたら、それは「因縁」とでも呼ぶしかないもの。

そういう理解を、華厳経は語っている。

すべては、因縁によって成り立っていて、その因縁は、つねに変わり続けている。

その因縁の産物が、「わたし」という意識であり、私という人生であり、私という存在なのだけど、

「私」を「私」として意識するのは、本当は正しい理解ではなくて、

「私」ではなく、「因縁」として理解するのが、本当なのかもしれない、ということなのである。


この因縁というつながり、関係性は、宇宙138億光年の果てまで続いている。

その無限・広大なつながりのごくごく一部を観念によって切り取って、「私」というものを我々は見ている。

もし、その「私」という観念を手放して、自意識という妄想を霧と散らせることができたとき、

そのとき見えるのは、無限に広がる因縁(つながり)という宇宙 である―――。


「わたしではなく、因縁として理解する」
「私を生きるのか、因縁を生きるのか」

「私にこだわる・執着する・囚われるかぎり、苦しみはつきまとう。

だが、因縁として理解して、ここから先を新しい、よき因縁をつくりだすために生きること。

心の持ち方ひとつで、この因縁の見え方、因縁と呼ばれるこの人生・この世界の色(見え方)はがらりと変わること」

そういう話になった。


仏教の学校は、かなりスケールの大きなテーマでスタートした。
華厳経。空(くう)・無常・因縁・つながり、という大乗仏教の根本思想。

仏教そのものに興味はない人でも、かなり新しい発見があるのではないか。

この先、どんな発見・学びがあるか――ぜひ楽しみに来てください。

みなご同伴下さいますように――(^人^)合掌。