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関わりという名の希望

4月20日
冷たい雨の日に想ったこと。


人生は、つながりそのものだ。
つながりが断たれればひとは生きていけない。

つながりの向こうにまた新しいつながりがある。

もしつまらない誤解や、独りよがりの怒りや裁きによってひとつのつながりを断ってしまえば、
その向こうにあるつながりには永久に手が届かなくなる。

つながりという無限の網目のまんなかに、「自分」という意識があるとすれば、
その意識を作っているのは、自分の我(が)なんだ。

そして孤立して、ひとりぽっちになるのも、自分の我(が)ゆえである。

ほんとうは、
つながりそのものに垣根はない。断絶はない。

つながりは、けっして絶えることはない。つながりはけして死なない。

ひとは、そのつながりを、自分のかんちがいによって、自分自身で創れるもの、断てるもの、コントロールできるもの、とどこかで思っている。

そうやって、どれくらいのつながりを、これまで断ってきたことだろう。

でも、本当は、断たれてはいないのだ。
ただ自分自身が、なにかしらの「執着」の枠の中に自分自身を閉じ込めているだけなのかもしれない。


関わりは死なない。そして関わりはつねに生まれつづけている。

もしひとが、新しい関わりを育てたいと思うなら、
(それくらい今の日常が物足りない・つまらないものに感じられるなら)

けっして過去に執着せず、ひとの悪口も愚痴も語らず、
つまりは自分を陰気にするような発想を言葉にせず、

前向きな希望・期待、語っている自分が嬉しくなるような言葉を、相手に伝えることだ。

そしてその関わりをけしてあきらめないこと。

タイミングが悪くてそのときは実らないこともあるかもしれない。
でもそういうときも落胆せずに、「今はそういうタイミングなんだな、また次を考えてみよう」と思って、
次の機会を待つことにしよう。

可能性を感じたら、その関わりを、自分の人生の一部に置いてしまえばいい。

すぐに関われるわけではないかもしれない。でも心の中には生かしておくことなんだ。

ひとは、みな自分の幸せのために生きている。その道を尊重すること。そのよき道ゆきを祈ること。

そして、今すぐには関われなくても、いつか分かり合える、役に立てる、相手にとっての喜びの一部になれるかもしれない、と想って、静かな友愛の情を保ちつづけることだ。


とにかく、関わりというものを、目に見えるものもまだ見えないものも、大切にすること。

その上での自分、なんだ。


深い怒りや悲しみや孤独という思いも、ほんとうは、けしてそれだけで独立して在るものじゃない。

今、たまたま、目の前にそういう思いがある。
そういう思いの中で生きているこの暮らしがある。

でも、そんな日常の中でも、かならず、ちがう誰かとつながっていて、
その誰かは、自分の日常以外の何かを運んでくれている。

それは、自分が招き寄せなくても寄ってくる空気のようなもので。
自分の日常の壁をすり抜けて入ってくるものがある。

ひとは、それを出会いと呼ぶ。新しい風がどこからか吹いてくる。

その出会いの中に、これまでの日常はない。
たとえこれまでの日常がどのようなものであっても、その出会いの中には存在しない。

出会いはつねに新しい。

そして新しい関わり、人生へと運んでくれる。

出会うというのは、それだけで希望。
関わりというのは、それだけで希望。

今ある日常がよろこびにならなくなったら、
ほんの少し、動いてみよう。

新しいひととして見てくれる誰かはきっといる。


旅立つひとへ――、
行ってらっしゃい。

新しいひとたちと新しい関わりを育てていくこと。

それは、いつになっても始められること。

命はいつだって新しく始められるものだということ。


目の前にあるのは、いつも、希望なんだ。


※仏教の学校2013年度の告知は、
http://genuinedhammaintl.blogspot.jp/2013/03/blog-post_24.html