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「自分」はいない――ではここにいるのは?

※4月24日に実施した〈仏教の学校〉第2回の話の内容をまとめたものです。

ブログではじめてみる人には難しい・おカタイ内容に見えるかもしれません。ただ教室で話を聞いた人にとっては、たぶんすんなりと入ってくる、おさらいとしてはちょうどよい内容ではないかと思います。
長いので、適当に飛ばし飛ばしてご賞味ください(^^)。


◇かつてインドにいた頃、日本から青年がやってきた。車に乗って発掘中の遺跡地に行った。

そこでは、女性たちが掘削した砂利や石を搬送する仕事をしていた。猛暑のなか日暮れまで働いて、たしか日給が四百円に満たなかった。彼女たちが運ぶ石の入ったザルはずしりと重たい。他の作業夫が使っていた鉄の鋤(すき)もまた安易に持つと足がふらつくくらいに重いものだった。

彼女たちは、土の味のするカレーと干し飯(ほしい:乾いた米)を私たちに分けてくれた。感謝して食べたが、正直、味といえる味覚はしなかった。

その帰りに、青年が語った――彼女たちの過酷な労作業にびっくりした。自分は働かずにこうしてインドまで来られる。日本でバイトでもすれば、彼女たちの日給以上の額を一時間で稼げてしまう。これは、客観的に不平等でどうして彼女たちと自分にはこのような違いがあるのか、という問いかけだった。

現実の中で、持てる者と持たざる者とがいる。その世界をどう説明するのか?

もう少し敷衍(ふえん)していえば、恵まれている(あるいは恵まれていない)この自分というのは、どうやって作られたのか? どうしてこの「自分」がいるのか?

さらに範囲を拡大すれば、「自分はなぜこの自分なのか?」「自分とはそもそも何なのか?」という問いにもつながってくる。

「自分」というこの存在をどう説明するか? 哲学ではなじみのあるテーマである。今は日常で精一杯の大人たちでも、かつて一度は似たような思いを抱いたことがあるはずだ。


○仏教ではどう考えるか? 端的に答えてしまおう。

仏教的な発想はこうである――。

「自分」という発想にとらわれていては、真相は見えない。
「自分」というのは、そもそも幻想である。それは、心をつくるさまざまな要素――感情や思考や欲求といったもろもろの心の働きが寄り集まって作られた「意識」にすぎない。

私たちは、胎児のときにはこの「意識」しかなかったはずだが、生まれ落ちると、肉体の感覚を感じ始める。見る、聞く、匂う、味わう、肌で感じるという五感を学習する。さらに、欲求も肥大させるし、「考える」という働きも発達させていく。

ある程度時間が経つと、いつの間にか「自分」という意識を持つようになる。

その意識が一定値を超えたとき、「自分とは何だろう?」という発想が生まれるのである。それは思考(考えるという心の働き)の産物である。

つまり、平たく言えば、「自分」というのは、心の中に生まれたひとつの観念にすぎないのだ。ひとはみな、名前とか年齢とか家族とか周囲の人間関係とか履歴とかさまざまな記号によって、自分というものを理解している(正確には、それが自分だと思い込んでいる)。

「自分」というものを解体してみれば、それは単なる欲望だったり妄想だったり欲求不満だったり記憶だったりするのだけど、そういうさまざまな心の現象がぐるぐると生まれ続けている「心」というひとつの現象の中で、「自分」というものを漠然と意識しているにすぎない。

だから、「自分なんていうものは(その思い込み以外に)存在しない」というのが仏教的な理解。


○では、「自分」ではなく何が存在するのか?

それはたとえていえば、「因縁」とでも呼べる現象である。

胎児から赤ん坊へ、幼児へ、少年少女へ、青年へとさまざまな体験を重ねて、そのときどきの肉体的な変化(成長)と、心の動き(反応)とがかさなっていって、その果てに「自分」という意識が生まれる。

もともと存在するのは、「自分」ではなく、そうした肉体と精神の変化。その変化をもたらした一つ一つの無数の出来事(原因となったもの)を総称して、たとえば「因縁」と呼ぶことにする。

インドで「なぜ自分はこの人生で、あの女性たちはあの人生なのか?」と考えた青年は、だから仏教的にはこう考えることができる――。

 いろんな因縁の結果・産物としてたまたま「この自分の人生」という意識が出来上がった。
 いろんな因縁の結果・産物としてたまたま「あの女性たちのあの人生」が出来上がった。


因縁の産物としてみるなら、それはただの現象でしかない。それ自体には、「幸福」も「不幸」もない。「恵まれている」も「過酷」もない。

たまたま日本という国で生まれて、親や他の人間たち、その他の無数の出来事とのつながりによって、ひとりの人間が「自分」という意識をもった。「この人生」という意識を持った。インドにやってきた「青年」が現れた。

その「自分」「この人生」という意識は、しかし、後に作られた心の産物でしかない。
その意識が「自分とは何だろう?」「この人生は恵まれている(恵まれていない)」「なぜこのような自分なのか」「なぜこのような人生になったのか」と考えているのである。意識が生み出している、ひとつの(かげろうのような)現象としての「自分」である。

人間にとっては、この「自分」こそが自明の(最初からある)ものだ。だから、「自分」についていろいろと考え、それゆえに悩みや欲も生まれてくる。

だが、それは意識が生み出すトリックみたいなもので、本当は、「自分」は存在しないのである。


「自分」は存在しない。あるのは「因縁」である――。

この理解は、仏教が見出した、それまでの哲学・思想とは根底から逆をいく理解である。

おそらく、未だに、人間が考えつく哲学・思想・宗教は、この仏教の真相・理解を理解できていない。人間は「自分」が大好き、というか自分なくしては思考すらできないものだから、どうしても「自分」を最初にすえて考えてしまう。

そしてひとは「自分」の満足を求める。もし「自分」が満足できない人生は、「失敗だった」とか「まだ足りないものがあるから次はこれを求めよう」とか、「自分はあの人が嫌い・苦手だから関係を断とう」などと考えたりする。つねに、中心に「自分」を置いて人生を作ろうと発想するのだ。だがそれは「自分」にこだわり続ける人生である。ちなみに親鸞上人は、そういう生き方を「はからい」と呼んだ。

しかし、そのはからい、自分という意識で生きようとしては、人生はつねに過去への後悔や痛みを、そして現在には欠落・不満を、将来には、不安や、新しい何かを追いかけ続ける欲求、その欲ゆえの心の乾きというものがつきまとうことになる。自分はつねに満たされなくなる。心が乾き続ける。孤独であり続けることになる。

それは道理(当たり前)なのである。だって、そもそも存在しない「自分」という思い込み(意識の産物)にこだわって、その自分を中心にして、他人に向き合っている(つねに対立している)のだから――。


○自分を捨てる。手放す。自分を許す。ラクになる。

いろんな表現があるけど、これらを文字通りに実現しようと思えばなかなかの修行が必要になる。

ただ、その言葉が意味するところは、発想の切り替え(ちがう考え方)によっても、もしかしたら別ルートで山を登るのと同じように、可能かもしれないのである。

それが、「自分はまぼろし。因縁がすべて」「自分はいない。あるのは因縁」という発想である。

もし今日イヤなことがあったら、たとえばこう考えよう――。

今日イヤなことがあった――と「自分」は考えている。

でも自分というのは確かなものじゃない。じつはきわめていい加減で、あやふやで、変わり続けているもので、よくよく見てみれば、そんなものはほんとうはない。

因縁として今日一日をとらえよう。たまたま今日はそういう因縁の日だった。そういう組み合わせの日だった。

でもその因縁もまためまぐるしく変わり続けているもので、明日は明日の因縁がある。

「自分」が今思っているようなことは、ただの妄想だ。きっと明日にはちがう現実がちゃんと起きてくれる。

明日は明日の因縁をあたらしく作ればいいのだ。

因縁というのは、心がけ次第でどんどん変わっていくものだ。心次第でどうにでもなっていくものだ。
(心では変えられない因縁もある? それはそうだ。だけどもしそうなら、そういう因縁には今執着してもしようがないじゃないか。起こることは起こる。でもそれは気にしても仕方ない。)

自分にできるところで新しい因縁を作っていこうじゃないか。それならわたしにもできる。

いつだって、因縁だけがある。大切なのは、その因縁を前にして自分がどんな心でいるか、なんだ。心ひとつで因縁はがらりと変わって見える。新しい因縁が生まれてくれる。

そうなんだ。明日は明日の因縁を生きてみよう。

もし、仏教が教えてくれる通り、
「自分」というのはただの因縁の産物で、
因縁というのはつねに新しく作られていくものだとしたら、

明日生まれる因縁は、自分にとって新しい希望じゃないか。


――因縁とは希望、なんだ。