仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
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仏教の学校、第1期いよいよ!

仏教の学校、いよいよスタート!

※「仏教の学校」のくわしい告知は
http://genuinedhammaintl.blogspot.jp/2013/03/blog-post_24.htm
※日程は http://genuinedhammaintl.blogspot.jp/p/1011.html

月2回のペースでやっていきます。
ときどきお休みあり。そのあたりは自然体でやっていきましょう。

◇「目の前の現実、じぶんの人生になにが必要か、どう役立てるか?」

という徹底的にリアルな視点でとらえると、
仏教はこれまでとはまったくちがったものに見えてきます。

とにかく深い。スケールが大きい。そして、発見に満ちている。役に立つ。

仏教ファンの中には、テーラワーダ仏教か大乗か(あるいは日本のいずれの宗派か)

という視点で仏教を学んでいる人もいるようだけど、
はっきりいって、それは視野の小さな見方。

テーラワーダ仏教の、瞑想重視の実践性、合理性。

大乗仏典から伝わってくる、スケールの超大きな、豊穣な、深淵なる思想性。その力強さ。

日本の各宗派の原点にある開祖たちの、勇気、大胆さ、発想の斬新さ。そしてひとりの人間の生き方としてのせつなさ――。

いっぱい、すばらしいところがあるのです。仏教のどの部分をとっても。

「どれかひとつ」を選ばなければいけない、というのは、ただの思い込み。
(ひとつだけを選ばなければいけないという必然的理由はどこにもないでしょう?)

発想の中心に、「今を生きるこのわたし」を置くべし。

そして、このわたしをしっかり生きるための智慧・思想・方法を学ぶべし。

そして、その学びが、ただの理屈、知識で終わってしまわないように、
それをひとつの生き方として実践していくこと。
実践を大切にする場所で学ぶことだと思います。

興道の里(こうどうのさと)は、そういう場所をめざしています。


◇仏教を学ぶ「ゴール」は何だと思いますか?
ひとつは、「自分はこれでよし」と納得できるようになることでしょう。

それは、迷いがなくなったり、
自分を変えようと思わなくなったり、
ひとの目が気にならなくなったり、
自分の過去や、ひとのことを許せるようになったり、という感じのこと・・・。

ブッダは「私は善を求めて(29歳で)出家した」と語った(長部経典)。

「善」というのは、今の言葉でいうと、「納得」 がいちばんふさわしいのではないかと思う。

納得をえるための仏教。
学ぶにつれて、
過去に納得できて、
今ある自分のすがたに納得できて、
将来の自分にも納得できるようになるための仏教。

それが私たちの目的、じゃないかな。


◇4月6日、横浜でとある仏教団体が主催する映画上映会があった(私はその字幕監修をさせていただいた)。

そこで出会ったご婦人は、テーラワーダ仏教を長年学んでいるけど、「涅槃(ねはん)・悟り」に目的を限定するところに、ちょっとしたクエスチョン(?)を感じているそうな。

「在家の(つまりは仕事やら家庭やらを持っている市井の)人には、それは無理がある」とおっしゃるのである。

そのとおり。
というか、そもそもブッダ自身は、修行や人生の目的を「涅槃」なるものに限定なぞしていなかったのである。

原始仏典の中にある「涅槃こそが目的ともいえるのです」という言葉と、
テーラワーダ仏教が標榜する「涅槃こそが目的なのです」というのは、
表現上の差異を超えて、方向性がかなり異なる。

ブッダ自身は、目的を限定してはいない。
人生の目的、道(生き方)というのは、もっと幅広い、ひとさまざまに選んでいいものであるはずなのだ。

私がそのご婦人に伝えたかったのは、

「人生の目的をきめるのは、自分自身。
ご自身のめざす方向に照らして、ブッダの教え・智慧を活かせばよいとおもいます」

ということだった。

開かれた者、めざめた者ブッダの教えというのは、つねに射程範囲を限定しない。
教えをどう活かすか、は、受け取る側の自由意思・人生の選択にゆだねられる。

そういう、とことん開かれた、裏を返していえばそれだけ強靭な思想なのである。


◇「仏教の学校」でも、 目的そのものは限定しない。

この場所で学んだ仏教的な思考法を日常にどう活かすか、は通う人それぞれの自由である。

それぞれの家庭、仕事、勉強の場面において、
「どう考えれば、どう心を使えば、今の自分を「よし」と思えるようになるか」
は自由に考えてもらえればと思う。

できれば、メールなどで、「最近こんなことがありました。そのとき、仏教のこういう知識があったので、それを使って、こう考えて、こういうふうにやってみることにしました」
なんていう、身近にあったできごとの報告なんかを送ってくれるとうれしい。

また、疑問・反論など、思うところを遠慮せずにぶつけてみてほしい。

私は、ブッダの流儀にならって、
理解しているところはありのままに答えるし、
理解していない部分は、そこはわかりませんと素直に言おう。
考えても意味がない問いには、それは意味がありませんよ、と率直に答えよう。

考えても意味のないことは、考えてもしようがないし、
考えて意味のあることは、きっちり考えて答えを出す。

正しい思考(八正道のひとつ)ができるようになってくると、
頭はますますクリアに、心は次第に軽くなっていくだろうと思う。

この場所に通ってくることで、徐々に、ブッダ的な発想法・考え方というものを身につけてくれたらと思う。

それは確実に、あなたの人生を楽にしてくれるはず、です。


◇横浜では、仏教を学んでいるそのご婦人のほか、
とある宗派のお坊さんだが、自分の家を寺として単身で活動している人や、
博士号をめざして(無味乾燥な日本の大学で)がんばっている台湾の尼僧さんや、
ひと助けの活動をお金の面でサポートしたいと意気込むシニアの企業人の方にめぐりあった。

改めて伝えたい――人生の目的は、ひとさまざま。ひとは完全に自由である。

その自由に枷(かせ)をはめるような、否定するような、宗教や思想というのは、もはや邪念である。

あらかじめ定まった目的だの、教義だの、しきたり・儀礼だのというものは、
ブッダの教えそのものとは関係がない。
それらは、のちの時代に作り上げられた、どなたかブッダ以外の人間による飾り物にすぎない。

ひとは自由であるべきである。
そしてその自由を最大限活用するために、仏教の智慧は存在するのである。

ただ、仏教には、ひとつだけ、向かってはいけない方向というのがある。
それは、ひとに苦しみを与えるような発想であり行動だ。それだけは採ることはできない。

仏教というのは、これまでの伝統的な「仏教」を学んでいる人にさえも想像つかないくらいに、
洞察に富み、応用・汎用(≒使い勝手)・知恵に富んだ思想体系である。

その核心・本質にこそ通じるべきなのだ。
どこぞの宗派・伝統・長老・学者先生が語る「これが仏教」に振り回される必要はなく。
その思い込みに、知力の楔(くさび)を打ち込んで、その奥に秘められたブッダの教えの核心にこそたどりつくべきである。

仏教徒になるというのは、仏教を「信じる」ことではなく、

仏教的な考え方・見方ができるようになって、
そういう自分に満足・納得を得られるようになることをいう。

それは宗教じゃない。心の発展である。人生の解放である。自由な「いのち」への昇華である。

「仏教の学校」は、そういう“めざめた”目的のためにスタートします。


今週は、いよいよ春の教室、各地でスタートです!