仏教講座スケジュール

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ほんとはみんな帰る場所を知っている

一年ほど前まで、神楽坂の教室に来てくれていた「道のひと」がお便りをくれた――。

「お久しぶりです。お元気ですか? ○○です。先日帰国して今は実家の静岡にいます。

ミャンマーでは9か月間修行してきました。3か所道場を移り、最後の3か月は出家していました。
その間、真剣に修行していました。しかし9か月目に思ったのは変わろう変わろうとまるで聖者を目指すような気持ちでやっていたけれど、そもそも変わる必要(別人になる必要)はないんだ、という事でした。

そこで仏教に対する想いも変わってしまい、結果的にミャンマーからも仏教からも離れることになりました。
それからしばらく東南アジアを旅してから帰国しました。

仏教から完全に離脱した形となりましたが、
ミャンマーで瞑想修行したことや、日本で龍瞬先生に仏教について学んだことはとても良い経験だったと感謝しております。これからはもともとやっていた映画製作の道に戻って一から始めます。」

ああ、このひとは正しい結論、答えに達したのだな――と私は思った。

このひとが、「仏教から離脱した」というのは、とても自然な――言葉を尽くしていえば、自分の心・目的に忠実に、素直に生きて、道を探して、あれもこれも試してみて、最終的に自分の感性で濾過したときに出てくる――最上の到達点だと思う。

私自身を思い返してみても、かつてそのままの自分では生きていけなくなったときに(それは納得いかない思いというか苛立ちというか虚しさというか後悔というか、何かが足元にからみついてどうにも歩きにくくなって、軋轢・違和感のようなものに生活の全てが包まれてしまったように感じたときに)、

仏教という、それまでは縁のなかった思想の世界にたどり着いて、その先に特別な答えがあるものと、さながら闇の先になにかしらの灯火(ともしび)があるのだろうと漠然と期待してその先に進んで、結局また新しい疑問や葛藤や違和とでもいえるものを感じて、最後は、仏教という世界そのものから抜け出した、という経緯がある。

私の場合は、「仏教」と人々が呼ぶ古い思想の世界に限界をみて、さらにその先へと進む覚悟をきめて、掛け値なしの孤独のなかへと足を踏み入れたときに、

それまでの自分では決して見えないひとつの真実――もうこれ以上、この先はないのだと心の底で感じる確信のようなもの――にたどりついた気がする。

面白かったのは、そのときの見極めというか、自分自身の長いながいさまよいの旅の先にあったものは、

仏教や他の思想・信仰の世界での「プロ」(語る資格があると世間では思われている、それなりの地位・立場・到達地にあると見られている人たち)が語るものとは違っていたということ。

誰かが語っている、「それらしい」真理や真実といったものと、自分がたどりついた真実とは、まったく違っていた。異質だった。

「なんだ、ぜんぜん違うじゃないか」と思った。

たぶん彼らは――彼らが真理として語っていることは、本当は真理ではない――本当は何も分かっていないのかもしれない、とさえ瞬間感じた。

そしてすぐに思ったのは、ああそうなんだ、きっとひとにはそのひとにしかみえないものがあって、

私にこの地点でみえたものも、私にしか見えない、私だから見えるもので、きっと私だけにあてはまる、私だけに見えてくる真実なんだろう、ということ。

ひとりの人間がたどりつきうる最終の境地というのは、きっとそのひとにしかわからない。そのひとにしか見えない。
どんなに言葉やその他の人間が発想しうるいかなる方法・すべをもってしても、他の人たち――この世界にかつて生きていた有史以来の人たち、この世界に今生きている数十億もの人たち――には伝えることができない、分かち合うことができない、

そういう真実が、それぞれの人間の中にあるのだ、という思いだった。

なんて、孤独なんだろう――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。

それは私が漠然と道しるべとして思い描いていたブッダというひとや、そのほかの天才と称される人たちについてだけではなく、

ここまで死に近いところまで自分を追い詰めて、他人をも追い詰めて、ギリギリの一線でかろうじて「まともさ」を保ち続けてきた感のある自分自身の道のりについての感想でもあった。

誤解されないように言っておくと、その感想は、自分を何か特別な価値あるものと錯覚したところに生まれる自意識の産物というのではない。

そうではなく、すべての生き物にとって、自分というこの存在は、ごまかしようのない事実として、「孤独」なのだ、ということなのだ。

宇宙のどこまで旅しても、「自分の心に見えるこの真実」を見てくれる他の生命などいない。

この心、この自分という存在を、これほどに如実(ありのまま)に、深く見尽くすことのできる何かというのは、この自分という存在以外にはない、(絶対に)ないのだ――という計り知れないくらい深い、絶望、だった。

こうして言葉で伝えるときには、「自分」という表現を使わざるをえないけれども、そこにある孤独という真実は、
この世界に存在する、すべての生命についていえることなのだ。

ひとは、絶望的なまでに孤独である。
生き物たちは、絶望的なまでに孤独である。
あなたも、あのひとも、隣にいるこのひとも、生き物たちも、あの木々たちも、
この世界に息づく、心、をもった命たちというのは、

どれも、ひとつの例外もなく、その命にしか見えない世界を生きている。今生きているこの世界は、この心だからこそ見えてくる、成り立つ、いわば閉ざされた、限られた、この命のなかでかろうじて成り立っている、あまりに精妙、奇跡的な、ただひとつの現象なのだ。

全生命がたどり着くただひとつの(つまりは共通の)真理があるとすれば、それは「孤独」なのである。

私は――その孤独にたどりついたときに、かつてあった苦悩(という言葉は月並みか。ギリギリと魂を苛み続ける何ものかとでも言おうか)が消えた。

私は、このたどり着いたところから、生きていくのだ、と思った。
このたどり着いたものに沿って、これからを生きていくのだ、と思った。

不思議なといおうか、面白いといおうか、そのときから今にいたるまでを生きているこの自分という生命は、なぜかとても自然に、もともとあった自分を呼び戻していった。
かつてあった自分の性格、ものの見方(ふだんの私の言葉で表すなら「反応の型」のようなもの)は、そのまま自然に帰ってきた。

新しい私は、かつての私を抜けたように思ったが、ただそこからまた戻ってきたのは、かつていた自分だった。

昔の私を知る人からすれば、「変わってない」と思うだろう。それはその通りだと思う。私だって、自分自身が変わってない、と思うもの(笑)。

私は変わらない。命のありようというのは、別に変わるものじゃない。変わろうとしても変われない。変わるべきだと思ったところで変えられるものじゃない。

変わる、というのは思考である。「はからい」の領域である。しかし、自分という存在はもっと底の深いものだ。その自分という命が湛(たた)えている深淵というのは、思考や言葉で変えられるようなものではない。自分というのは、あるがままにあるものだ。あるがままにしかあることのできないもの、そのまま在ることしかできなくて、そのこと自体(変わらないという真実自体)によいも悪いもない、人間の思考の領域とはまったく接点をもたないくらいに違うところにある、ものなのだ。

結局、ひとは、自分を生きてよいのである。
「気づけばそこにあった、気づけばもう生きてしまっていた」この自分を、そのまま生きていくのである。生きていけば十分よいのである。それがほんとうは、究極の答えなのかもしれないということである。

便りをくれたこのひとは、仏教を通り抜けて、自分へと還っていった。とても自然ななりゆきとして。最上の答えなのだろう。

彼が旅立っていった昨年四月夜、私は彼に「あなたにとっての最高の真実を見つけてください」と伝えた。

彼は、見つけたらしい。じつに善きことではないか。

彼は、もともと道として歩いていた映画の世界を生きていきたいようだ。「彼らしい」、つまりは彼にとって最善最高の答えなのであろう。

ちなみに、私の場合は、なぜそのまま仏教の世界を生きていくことにしたか――。

(自分にとっての真実にたどり着いたとき、私にとって「仏教」は存在しなかった。それまで聞いていた仏教のどの言葉とも、自分にみえた真実は違っていたし、その真実は、仏教という言葉で表現できるものでもなかった。あえて仏教という言葉を使う必然性がないくらいに、あまりに無色の真実だった。そしてそこから先の道を見ようとしたときにも、どこにも仏教と呼べるものは見当たらなかった。「仏教じゃなくていい(仏教なんかいらない)」という思いを感じていた。)

それは、仏教が、たまたま、「たどりついた自分」に一番近いものだったからである。仏教を語り、生きることが、そのまま新しい自分を生きることになる。
自分を最も自分らしく生きられる、その方法・あり方・姿が、仏教だったからである。

私にとって、私自身を語ることは、そのまま仏教になる。
他方、仏教が擁する豊穣で深淵なる思想を語ることは、そのまま自分自身を語ることになる。
自分の全人格はそのまま仏教に重なる。仏教の思想はそのまま自分自身に重なる。
仏教は、私にとって、自身のありように一番近い言語なのだ。

仏教を語ることは、とてもラクで自然。それは知識や言葉・観念として、格別なものとして、語ることではない(学者先生が語る仏教というのはそういうものかもしれないが)。自分の思い、生き方、かつての思い、をそのまま仏教の表現を借りて言葉にすれば、それが一番、自分の心にフィットする。それくらい自分にとって自然なものが、仏教なのだ。

だから結果的に、私は仏教をその先の新しい道として選ぶことになった。べつに仏教にしがみつくつもりは一切なかった。仏教にこだわる思いはなかった。
ただ、私の場合は、たまたま、偶然に、仏教が、かつての自分、そして新しい自分にとって、最も近く、自然なものだったということなのだ。

仏教を語ることは、自分にとって一番ラク。最も自分らしくいられる。だから仏教を語る。その結果の今の私である。

こういう「最も自分らしい選択」には、ひとつの特徴があるような気がする。

それは、無理しなくてもその選択とともに生きていけるということ。
たとえ現実がうまくいかなくても、誰かに認められなくても、それが自分自身であるのだから、けっして降りようとは発想しない。「このまま」でいい、と腑の一番深いところに落ちている思いがある。だから、ただ「この自分を生きていく」だけなのである。

彼は、こういう心境にあるのだろうか。もしあるとすれば、とても自然な正解だ。もし違う心境にあるとしても、それでもたぶん彼は、それ以上に「答え」を探そうとはもう思わないのではないか。なんだかそんな気がする。彼は答えを知っている――。

道をゆく、ことの素晴らしさというのは、自分にとって最も自然な結論にたどりつけることにある。
道を外しては、道を求めずしては、けっしてそれほど最上の答えにはたどりつけない。道を求めたからこそたどりつける結論である。

道を探して、苦労して、あれこれと場所を訪ねて、たどり着いた場所は、結局、「もともといた自分」なのかもしれない。

でも、その自分は、道をゆくことのない人にとってはけして味わえないだろう自然さを持っている。自分はそのままかつての自分だが、その自分に感じる思いというのはちがう。
自分への肯定、受け容れとでもいおうか。

それまでは違う自分、別の自分を求め続けていた、つまりは本当の自分というのは、いつもはるか先の彼方に、今いるこの場所とは違うところにあるように思っていた。
だが、ここからは、本当の自分がいつも「ここ」にいる。本当の自分がゴールではなく、出発点にある。これから先への「はじまり」にある。そういう違いがあるような気がする。

いつも「自分」と一緒にいられたら、これくらいラクなことはない。
もともとひとは自分が好きなんだ。自分を肯定できる心がある。自分をそのまま自分として(幸せに)生きられるだけの心の豊かさを持っている、のだと思う。

本当に大切なのは、どうやって、この生きていられるうちに、もともとあった自分に還ってゆけるか、戻れるか、ということなのかもしれない。

面白い道の成就を見た気がする。
自分にたどりつく、のは、なんだか心をもつ命がみんな秘めている「法則」のようなものなのかもしれない。