仏教講座スケジュール

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本物が見ているもの(正しい学習法)


●最近あった、これは善き出来事。

前向きな目標を持っている人は魅力的。がんばってほしいと思う。

何かを成し遂げることは簡単じゃないよね。
現実はつねに作業の積み重ねでしか運ばないから。

たぶん肝心なのは、その作業が、「正しい方法」に裏打ちされていること。

「正しい方法」こそが、一番考えなくてはいけないこと。


○「正しい方法」というのは、やっぱり本物・一流の人間が知っている。

彼らはえてして、自分のアタマの中(彼らが実践している正しい方法)というのを開陳してくれない。

だけど探してみると、やっぱり教えてくれている人はいる。

図書館に行ったり、論文や新聞記事を漁ったりして、
「自分の心にいちばん響く」言葉をもっと貪欲に探してみよう。

テキトーな人たち(≒自身の限られた成功体験を語るばかりで、本質・原理にまで自らの体験を昇華できていない人。たとえば予備校の先生?)が語る
「これが正しい方法」というのにとらわれないで、

心を開いて、広く大きな心で、
本当の本質、本物のものの見方・考え方とはどういうものだろう、と考えてみてほしい。


●不思議なことに、それらの本質、本物というのは、

みなシンプルさを持っている。そして美を持っている。

美とは、譬えば秩序のこと。
現実を処理する、理解するための法則とか、体系とか、視点を与えてくれるもの。

本当の学びというのは、どの世界であっても、
明快な視点、秩序を与えてくれるもののはずである。

あるいは、
そうした視点や秩序の“つくり方”をも教えてくれるもののはずである。

たとえば数学を学ぶというのは、
この宇宙の法則を、数式や記号で秩序化する方法を学ぶということ。

美術を学ぶというのは、
この世界の美しさを色や線や立体で描き出す(つくりだす)方法を学ぶということ。

どちらも、「方法」(つくり方)を教えてくれるはず。それが本当の学び。

(もしこの問題にはこの解き方を覚えろとか、このオブジェにはこの描き方を真似しろ、という先生がいたらニセモノだと思うでしょう。ほんとはどんな学問・勉強も同じ。「つくり方」を教えてくれるのがほんとうの先生で、つくり方を学ぶのが本当の学び。)

もしそうした「方法」を学ぶことができれば、
目の前の現実は、自分なりの秩序をつくるターゲット(的)になる。

自分で秩序、道筋をつくれるようになる。
現実にどう向き合えばいいか、自分なりの方法が思い浮かぶ。

その結果、世界がとてもよく見えてくる。楽しくもなってくる。


○仏教だって、ほんとは現実に秩序を与えてくれるもの。

つまりは、複雑で混沌とした悩み苦しみ多きこの現実に、
どう向き合えばいいか、どう理解すれば(受け止めれば)いいかという道筋を与えてくれるもの。

仏教を学ぶということは、ただ言葉・知識を増やすことではなく、
「こういう状況のときにはこう考えよう(理解しよう)」

という思考の道筋をつくっていくことなのだと思う。

たとえば複雑膨大な仏典の言葉を、ただやみくもに知識として追いかけようとすれば、
たぶんどこまでいってもわかった気はしないだろう。

(そこに仏教学の試験でもあれば、丸暗記とかテクニックに走ろうとするかもしれない(笑)。だがその道の結末にはあまりろくなことはないだろう。)

しかし自分なりの目的をまずは持つ(「今あるこの満たされなさを解決しよう」)。

そのために、基本的な理解を学ぶ。理解するための視点・体系というものを持つ。

(四つの真理や八正道、心を浄化する方法としての座禅/ヴィパッサナー、あるいはひとと関わるときの心の基本である慈悲喜捨とか。)

それらの理解を深めるために、さまざまな仏典の言葉に触れていく。

そのとき、それらの言葉が、
どの目的・視点・テーマに関するものなのか、
自分の人生にどう活かせるのか、
といった明確な目的意識をもってアタマに収めていくことだ(考えながら読むとは、頭の中に秩序を作りながら、論理を再構築しながら読むということでもある)。

その積み重ねによって、だんだんと「自分にとっての仏教」が出来上がってくる。

そのとき築かれるのは、自分にとって最も使いやすい、自分メイドの「現実への対処法」である。
一度確立されれば、あとはそれを活かして現実に向き合えばいい。


そういう心構えができたとき、苦しみの多くは霧散する。

どんな問題にも、自分なりの理解をもって受け止めることができるようになるからである。


●何かを学ぶというのは、そういうことだと思う。

秩序のつくりかたを学ぶこと。それを再構築できるようにすること(練習)。

誰かが語る言葉をそのまま鵜呑みにすることじゃない。
難しい言葉をそのまま覚え込むことじゃない。

誰かの言葉を活かしながらも、
自分が最も操りやすいように、現実に自分なりの秩序を与えられるように、
表現をカスタマイズしながら、
自分なりの視点・秩序・体系を作っていくことなのだと思う。

「自分なりの説明の仕方」が確立できればいいのである。

つまりは、最終的には、あらゆる分野でいえることは、
自分自身の言葉で、自由自在に、語れる(書ける)ようになることなんだ。

恐れるな。媚びるな。つねに自分自身の思いを、力をこめて表現せよ。


●「そこまでオリジナルでいいの?」と思うかもしれない。
でも本当のオリジナルというのは、必ず他人も通じる「本質」をきちんと踏まえているものだ。

(もし他人に通じないとしたら、まだ「本質」が分かっていないということだろう。)

「本質」がわかっていれば、どのような言葉の構造物(表現)であっても、他人に届く。
そういうものだと思う。

無駄をくりぬいて、削ぎ落として、「本質」だけをきわめる作業をすること。

自分にとっての「本質」をみきわめるという主体的な目的を、学びの動機とすること。

「本質」だけで、その場にあわせて、
その場における最善の答え(理解)をつくりあげられるようになること。

その理解は、必ず、わかる人にはわかる。そして高く評価されるはず。

わかってもらえるだろうか(笑)。


○どの世界にも、本物・一流が見ている「本質」というのがある。

もしそこに幸運にも届くことができたら、世界はがらりと変わって見える。

希望はある。がんばって。