仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
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なかなか前に進めない5つの理由とは?

●6月29日(土)は、仏教の学校・イントロ編を開きます。

仏教のエッセンスを、
主要な教えをピックアップした教材を使って総ざらえします。

仏教を里でまだ学んだことがないひとはもちろん、
今の講座に「途中から参加した」ひと、昨年のきほん講座を欠席してしまったひとには特にオススメです。

●私がうれしいのは、仕事などで忙しくてなかなか通い続けられない人が、ときどき時間をやりくりして出席してくれることです。

仏教というのは、やっぱり心の中にずっと留めて、育てていくのが最も尊いことです。
離れてしまったら、もう「もともといた自分」が戻ってくるだけですから・・・・たまーにでも、来られる時に来て、自分の今の心境と、仏教が説く発想とのズレを確かめることが大事なのだと思うのです。

行けるときには行くぞ、という思いが、日頃の生活で何を心がけ、何を避けるべきかを意識させてくれるのではないかな。その「忘れない」日常が大切だと思うのです。

●さて、最近の受講生の感想を紹介しましょう――

春クラス最終回の、業(人生をつくりだす力)というテーマについて。

先日も、業について清い学びをありがとうございました。

自分の日々をつくっている行動、言葉、思いの一つひとつが
どう生み出されているのか、より敏感に感じる日々が続いているように感じます。

とはいえ、心がざわつき、ざらつくことは数多く、
五蓋に照らして自己を知りつつも、知るよりも早く、反応するその粗さ、繰り返すしつこさに
懺悔文の言葉を、何度も見直す時間を過ごしています。

「過去の一切を手放す」
大きな言葉だと感じます。なかなか難しいです。


「五蓋(5つのさまたげ)」というのは、心の成長を妨げる5種類の煩悩のことです。

伝統仏教では、①快楽欲、②嫌悪(これが大きくなると怒りになる)、③停滞(暗くなる・ふさぎ込む・重たい・憂鬱)、④散漫あるいは昂ぶり(後悔も含む)、⑤疑い、の5つ。

ただこれは「禅定(≒高度で安定した集中状態)を妨げるもの」という意味があって、他の経典では、

「五つの執着」として、①貪欲、②瞋恚(怒り)、③妄想、④高慢māna、⑤自分の見解(自分がこだわる見方・考え方) を挙げています(サンユッタ・ニカーヤ第1集)。

講義で紹介したジャータカ物語では、三毒プラス「慢」が挙がっていましたね。

学ぶ側としては、こうした仏典の言葉に触れたときに、
「自分の心の成長を妨げているのはどれだろう?」と考えて、
「自分特有の5種類の妨げ」というかたちで再構成することを勧めます。

「お勉強」としてとらえる人は、こういう仏典の言葉を「知識として覚えよう」としてしまうのです。

でも、それじゃ心の成長には役に立たないでしょう?(試験のためにやってるのではないんだものね)

むしろ、とことん自分本位に、主体的に考えて、
「自分自身が気をつけなければいけない妨げ・ベスト5」を再構成するほうがよいのです。

(※注記 もとより仏典の言葉を「これが正解」として限定しなければならない必然的理由はありません。仏典の言葉が正しくて、自分の理解のしかたが間違っている、という“論理的証明”は不可能です。
試験とちがって、これは自身の生き方の問題だから――世界の誰ひとりとして、あなたの幸せを定義づけうる権威(オーソリティ)にはならないのです。
自分が幸せかどうかは自分自身が決めること。ならば幸せになる方法も自分自身が選んでいいこと。だとすれば、仏典は、あなた自身が自分の現実に照らして整理し、加工し、カスタマイズして「活かす」べきものなのです。)

大切なのは、「自分の人生に役立つか」という視点。それがブッダの思考法。

その意味で、前回の講座では、「慢」(うぬぼれ・見栄・プライド、卑屈になったり高慢になったりという自分の価値を測る心)を、妨げのひとつとして入れました。たしかに妨げですものね。


」というのは、承認欲が生み出す心の病気(妄想の一種)ですが、これはなかなか強力で、しつこいのです(笑)。

自分はエラいぞ、すごいんだぞ、というわかりやすい慢もあれば、

「ちょっとくらい力を抜いても大丈夫だろう」と油断してしまったり、調子がいいからとつけあがってしまったり、というのも慢。

今売れてる『スタンフォード大学の自分を変える教室』では、
この「頑張ったぶん力を抜いていいと思ってしまう」というのを「罪のライセンス」と呼んでいます。

「いいことしてきたんだから、ちょっとくらい悪いことしてもいいでしょ」という反動。
代表例が、「ダイエット頑張ったから、ちょっと甘いものを・・・」という悪魔の誘惑。

仏教では、これは「慢」。
「ラクをしたい」とか「甘いものを食べたい」といった欲求が生み出す屁理屈=妄想、なのです。

『教室』の作者であるマクゴニガルさん(心理学の先生)は、そこに打ち勝つのが「意志の力 Willpower」だという。アメリカ的ですね。


仏教では、こういう「慢」の誘惑に打ち勝つのは何だと説いていると思いますか?

それは、「つつしみ」「懺悔」の心なのです。対照的で面白いでしょう?

自分が日頃犯してしまっているあやまち(腹を立てたり慢を持ったりという毒を生んでしまう心)を、「すいません」と心でこっそり懺悔する。

「心のどこかで自分はエライ、正しい、なかなかエエことしてやった(どや?)と思っているかもしれないけれど、これは承認欲が生み出すただの判断(妄想)、アホらしい錯覚」と考える。

「人間なんて一生でわかることなんて微々たるもの。わかった気にならないようにしよう。むしろ、わかっていないという前提に立とう」と考えてみる。自分の足もとをつねに見つめる。それが「つつしみ」。

こうして、つねに、人生わからないことばかりで、頑張ってるのに失敗したりして、
ときに快楽に流され、ときに小さなことで腹を立て、
そのくせ自分にとって大事だとわかっているはずの物事すらまともにやり通せない、なんとも頼りない自分、という理解に立つ。

そうして、謙虚に、つつしみをもって、ひとさま、世の中に向き合う。

それが生き方の基本のような気がします。

こういうつつしみを持つひとは、とってもタフになれる。

自分は自分が想うような自分じゃない、という謙虚さがあるから、

つねに足もとをみていて、緊張しないし、腹を立てる回数も減るし、目の前のモノゴトに集中できるようになる。自分を見失わないですむ。
つつしみというのはほんっとに大事。


龍瞬先生が、「③火をつける」にて、
最終的に語ったことは「淡々と物事をこなす」だったことが
非常に印象に残りました。

この問いにおいては、テキストの文面からも
非常に前向きで、希望に満ちたことを
自分に課したくなりますが、

たしかに、それが抽象的な大きな概念であるほど
日常の現実では、地から足が浮く感じがして、
求めすぎるとかえって執着がおきたり、
達成できないと、大きな苦が起きそうです。


そのとおりと思います。
正しい火(夢・目標)は、遠くに見るものではなく、近くに見るもの――。

理想は、
今の自分に着実にできる範囲の中にしか「火」を置かないこと。

そのすぐ目の前の火で、自分の心をあっためて、できることをやる。
できることをやっている中に火(喜び)を感じられるようにする。

そういう心がけをつきつめれば、「火」なるものは実は必要なくなって、
ただ、目の前の作業、できることを淡々とやるだけで、それが楽しい「火」になってくれる――。

そういう「淡々とこなす中に人生の火(喜び)を感じる」というのが、仏教の最終ゴールのような気がします。

みんなは、どう思いますか?

「今できること」を着実にやることに「火」を感じられるようになったら、それが一番のような気がしない?
そうすれば、毎日が火になってくれるから。日々楽しく生きられるから。

だから明日はこうしてみませんか?

明日一日がそのまま自分にとっての「火」になるように、「考え方」を工夫してみるというのは?

まずは、つつしみ(謙虚さ)をもつ、ことから始めてみよう。