仏教講座スケジュール

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自分の言葉で、自分の生き方として想いを語れ

●6月29日(土)は仏教の学校・イントロ編。

予想(妄想)より来てくれた人の数が多かったので、教材が足りなかった。

(※今日もらえなかったひとは、できれば次回くる前にメールで「こないだの教材ほしい」と連絡して下さいね。)

●仏教というのは、宗教でも、学問でもなく、「生き方」なんだということをもっと徹底して、私たちは語り、聞き、学ぶ必要があるだろうと思う。

今の自分の生き方が、本当に自身納得のいくものなのか。

今の時代の国や人々のあり方が、本当に幸福(苦しみからの解放)に役立つものなのか。

そこは、誰の判断に委ねるのでもなく、自分自身の、心のほんとうに深いところで、つきつめて考えなくちゃいけないと思う。

最近の話題に、「ルイ・ヴィトンのバッグもって、信者にチャーターしてもらったジェット機で移動するタイの坊さん」というのがあった(今週のNEWSWEEK日本版に出てます。YouTubeにあるらしい)。

「戒律守って修行にいそしむべき僧がこんな度を越した贅沢をするなんておかしい」というのが、大方の反応。

たしかに正しい行い(八正道にある“目的に沿った行い”のこと)ではない、と言いうる言動ではある。

ただ、彼のあまりある贅沢を支えているのは誰なのか――チャーター機を差し出した在家のひとがいるのである。

彼らは、僧たちに布施することが、自分の善業、功徳になると信じている。
そのことで、よき来世に生まれ変われるのだとも。
功徳を積むには、僧たちに布施するのが一番なのだとも。

それは、他ならぬ僧たち(比丘・長老)が語っているところだ。

○私自身の見解を語るなら、「僧たちに布施することで来世への功徳になる」という発想自体が、ブッダの思考法に反する。

まず、来世というのは、たしかめようがないという点で妄想の域を出ない。

(これをブッダの教えと説く僧たちが伝統仏教の世界では大多数のようだけど、彼らは仏教に混入したバラモン思想を盲信しているだけだろうと思う。なにゆえにそれを支持するかといえば、自分たちに都合がよいからであろう。)

また、「布施」(与えること)というのは、慈悲喜捨という四つの心に基づいて、

相手の苦しみを癒すため、相手の喜びを増すため、
相手の幸せを願いながら差し出すことだろうと私は理解している。

その根底にあるのは、他者の心への「共感」である。「理解」である。
その境地は、自分の煩悩を流した、執着を手放したところから出てくる。
慈悲喜捨に基づく行い、つまり与えることというのは、仏教思想に基づく、もっとも自然な行いだ。
そして、仏教がたどりつくべき最終ゴールでもあろうと思う。

では、その与えること(布施)の相手は、誰であるべきか?

それは、苦しみを抱えている人あるいは、
喜び・幸せを必要としていて、その施しによって喜び・幸せが増すだろう人々だろうと思う。

そうしてみると、「相手は僧でなくてもいい」ということになるだろう。

伝統仏教の世界では(大乗であれテーラワーダであれ)、二言目には「布施をして功徳を積め」という言葉が出てくる。そしてその相手は、教団であり、比丘・長老たちである。

だが、もし彼ら僧侶の人生の目的が「自身の涅槃(悟り)」にあるというのなら、
その修行に要する費用は、自分でまかなうのが道理であろう。
あるいは、「いつまで」という期限をきめること。
期限もきめず、「輪廻」だの「来世のための功徳」だの、「涅槃こそが最高の目的」だのと語って、人々から布施を受けとって、中途半端な修行しかしないというのなら、

(率直にいおう、本気の修行は短期決戦である。何年かけたからといってたどり着けるものではない。)

そのあり方は、自分が選んだはずの出家・修行僧としての生き方に照らして、
あるいは慈悲喜捨という仏教の根本原理に照らして、おかしいのではないか。

彼らは、それでも、今の仏教のありかたを「お釈迦さまの教え」と語って、
「自らの生き方として正しいのか」という、合理的な思考をとらない。

ルイヴィトンを抱えた僧たちも、そうしたあり方を可能にしてしまうタイの伝統仏教も、
どこか大切な本質を見失っていると理解するのが正しいだろうと思う。


●もうひとつ、話題になったのが、
ミャンマーで、「仏教を守るために、“狂犬”であるイスラム教徒を排撃せよ」と民衆に訴えているという高僧の存在。

TIMEでは Buddhist Terror(仏教徒による恐怖)という特集が組まれた。
(続報 http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,2146000,00.html
 レポート映像 http://www.youtube.com/watch?v=ldg1DNqj1FQ )

その号はミャンマーでは発禁処分になったとか。たしかに、表題は必要以上に扇情的ではないかいう感想は可能かもしれない。

ここで、彼の活動の是非を論じるつもりはないが(私自身の日常に照らして必要がないので)、

ただ一点、同じ僧侶として「これは正しい言葉ではない」と感じるのは、
彼が「これは釈迦の教えである」と語っているらしいこと。

「恨みは恨みをもってはやまず」という有名すぎるダンマパダ他の言葉を引用するまでもなく、
彼の言動は、ブッダの教えそのものはなかろうと思う。

○ただそうした解釈論の以前に、彼の言葉はいっそう正しくはない。というのも、

彼は、否、現代に生きる僧・人々の誰も、ブッダに会ったことも直接聞いたこともないからである。「これは釈迦の教え」という言い方は、厳密には成り立たないはずだからである。

もとより、ブッダの知性と、自分の知能とはまったくの別物である(脳という容器そのものがちがう)。

ならば、自分以外の他者の言葉・見方というものを、自分自身の言葉・見解として語ることはできない。

あくまで、自分自身が実践して、確かめて、実感して、理解したことのみが「おのれにとっての真実」になるのではあるまいか。

その真実を、自分自身の生き方として、理解として、考え方として語るのならば、それは正しい言葉といえるだろう。

最もふさわしい言葉というのは、
自分自身にとっての真実を、自分の言葉で、自分の生き方として語る言葉である。そこに他人の言葉はいらない。

特に、「生き方」を求めて出家し、「生き方」を人々に説くことを求められている僧ならば、本来なおさらである。彼らは、本当は「お釈迦様はこう言っています」とは語ってはいけないのである。

それは、生き方を説く人間として「フェア」ではない。

他人の言葉を根拠としているという点で、生き方を語る資格もないのかもしれない。

彼らは、そうした非論理的で、筋が通らず、フェアではなく、生き方としての根拠にもならない「お釈迦様」を人々に語ってやまない。

そうして、簡単に「輪廻」なる誰も確かめたことのない話を、「お釈迦様の教え」として語ってしまう。

そして、そうした非合理的な発想の延長に、今回のミャンマー僧による扇動があるような気がする。

「お釈迦様」を語る彼の言葉は、どれも結局は、自分の思い込みでしかない。

自分の思い込みを他人の存在で根拠づけようとしている現実自体が、ブッダの教えに反するのである。

(仏教を学んでいる人たちは、ぜひ確かめてみてほしい。ブッダは一度たりとも「誰かがこう語っている」とは語らなかった。「私ブッダの言葉を自分の言葉として語れ」とも言わなかった。「自ら実践して確かめてみよ」と一貫して説いていただけである)。


●タイの贅沢な僧も、ミャンマーの過激な僧も、

「世の中がそれを許している」「伝統はこうである」「お釈迦様はこう言っている」という他人まかせのあり方である点は共通している。

それが本当に自らの生き方として真実たりうるのか、

自らの言葉・行いの先に何が待っているのか、
それは自分自身の本来の最も深いところにある心に照らして、正しい、納得のいくものなのか、

という誠実な自問が抜けているように映る。

そして、その結果として、自らの人生に報いがくるだけでなく、

やりようによっては、世の人々の希望となり、よりどころとなり、

あるいは信仰をたがえた者との間でもよき関わりを育てていくために、
どう関わればよいのか、どう聞き語ればよいのかということを、もっともっと真摯に、慈悲をもって、人々とともに考えていけるはずなのに、

そうした明るい方向性とは真逆の事態を招いてしまいかねないのである。

仏教を語る側が、行いや言葉を間違えてしまえば、
その先に来るのは、人々の失望であり、この時代の中の孤独であり、
信仰を異にする者との葛藤・対立、そして流血の争いであろう。


●私は、ただひとつ、正しいと思える立場に戻りたい。

自らの生き方を、自らの生き方として問う、語る、生きる」という立場である。誰の生き方を引くでもなく。

私は、自らの新しい生き方を、誰にも頼らず発見し、その見つけた真実を人々に、自分の言葉で説いたという点で、やはりブッダに敬意をもつ。

○話が長く(熱く?)なっちゃった――。

教室に来てくれたみなさん、どうもありがとう。

今日分かちあった「生き方としての仏教」、ぜひ考えてみてください。

次回の仏教の学校・夏クラス第2回は、7月10日(水)と13日(土)です。


またお会いしましょう!