仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

もうすぐ夏


●7月1日(月)は代々木での炊き出し。

里の授業に来ている青年がボランティアとして参加(よく来てくれました)。

ホームレスの男たちによると、オリンピック委員が視察に来た頃から、野宿取締まりが厳しくなった。

それまでほかの場所で寝泊りしていた人たちが、代々木公園周辺に集まってくるようになった。

たしかにあちこちに以前には見かけなかった青いテントが。

炊き出しも警察の指導があって(真偽はわからないけど)、閉鎖するところも出てきているらしい。


●今日は、仏教に造詣の深いある女性の神話学者の子供の頃のエピソードから。
(東ゆみこさんの『おとなのための仏教童話』光文社新書から)

彼女は港町で生まれた。母子家庭で母親は叔母が経営している旅館を手伝っていた。

7歳の娘をひとり家で留守番させるのも不用心だということで、旅館に連れてきていた。

夏になると、大阪などの都会から海の休日を楽しみに、家族連れや学生たちがやって来る。

彼らはとても楽しそう。朝から外に出かけて、夜はごちそうで舌鼓を打って。

そんな旅館に、毎日お昼前後に子供連れの女性がリヤカーを引っ張ってやってくる。

リヤカーには今朝とれた魚が積んである。それを買ってもらいに商いにくるのである。

旅館のおかみは、魚を品定めして、買うときは買ってやるが、買えないときは買わない。

そういう時は、女性は売値を思いきり負けて、なんとか買ってもらおうと食い下がる。

でも、おかみさんも旅館の客に出すものだから妥協できない。断らねばならないときは毅然と断る。

行商にきた女性は寂しそうに、また重いリヤカーを引いて帰っていく。

そのすぐ脇に、自分と同じ年頃の女の子がいた。

女性はその当時、その母娘の姿を見て、こう考える――

旅館には休みを満喫してすこぶる楽しそうな家族連れがいる。
その一方で、毎日、汗だくになって魚を売り歩いている母娘がいる。

その違いはどこから来るのだろう。

あのリヤカーいっぱいの魚を買ってあげたらどうだろう――でもそれだとおばさんの旅館が困ることになる。

旅館のお客さんも、あの母娘も、そしてこの自分も、みんなが幸せになれるあり方はないものだろうか?

そんなことを考えた、というエピソード。


●ひとの人生がそれぞれに異なるのはなぜか?

私はなぜ私の人生で、あのひとはなぜあのひとの人生を生きているのか?

そういうテーマで話をした。今回の結論を平たく言ってしまうと、

ひとそれぞれの人生は、因縁によって成り立つもので、そこに人間が考えうるような理由というのはそもそもないのだということ。

縁によって起こるもので、それぞれの人生には、よいも悪いも、幸も不幸も、本当はない、という話。

因縁というのは、自分で選べない、コントロールできない、自分以前に、自分以外のところにあるものだから、それは受け入れるしかない。また因縁そのものが苦だというわけじゃない。

もし人生が因縁によって成り立つ現象なのだとしたら、そこに苦や不幸が存在するのは、ほかならぬ自分自身の判断(我見:がけん)が作り出したものだ、という話。

相手の人生を「気の毒だ」と判断した時点で、不幸・苦しみが生まれる。

でも、それは元からあるものじゃない。人間の思いが作り出したものなのである。

○因縁に近い意味で使われる言葉に「業(ごう)」というのがある。

これは、人生を作り出す力。

人生を作っている要素・力という点では、因縁も業も似ている。

ただ業は因縁とちがって、自分自身が作り出すものだ。

行い、言葉、思いとう三つの要素(はたらき)が自分の人生を作り出す。

業は、自分でコントロールできるもの。

(コントロールできないもの、前世から続いているものと考える仏教もあるが、それは採らない。原始仏典には、「身・口・意の三業」(しん・く・いのさんごう)とはっきり定義しているし、前世なるものは確かめようがないという点でゴータマ・ブッダの思考に沿わないから。)

自分が何を思うか(意)、何を語るか(語)、何をするか(身)は、自分自身が気をつけて、選ぶことではないか。そして、それに見合った影響(果報)が導き出される。自分の業が人生を作っていく。

●業は自分で作り出すもの、因縁は受け入れるもの(手放すもの)、という理解に立つと、とてもシンプルな生き方が導き出される。それは、


自分自身の思いと言葉と行いだけを注意深く見つめて、悪を避け、善を働こうというもの。


(ここでダンマパダを引用――できるけどしない(笑)。このブログは、いろんな経典の言葉(大乗も原始もある)に基づいて言葉を紡いでいるのだけど、正確に引用するとなると手間がかかるので、省略させてもらいます。すみません(^^)。)

そして、因縁そのものは、自分で選べない、コントロールできないものとして、手放す。

たしかに業が原因となって、善き結果や悪しき報いを導き出す。その意味で、業もまた因縁の一要素ではある。ただ、そこで因縁そのものをコントロールしようとはからうことは無理である。ひとがコントロールできるのは、思い・言葉・行いというパーソナルな領域、すなわち業のみである――。


どうだろう? とてもシンプルではないか。難しいけど、でも生き方の方針としては明快である。

心の中に三毒(貪欲・瞋恚・妄想)を溜めないこと。
感謝と慈しみを念じること(そうすることで善き思いが育つから、善き業となって善き人生を作っていくから)。

そうして、因縁そのものはよくも悪くもなくて、ただ受け入れる、ただ生きるということ。

●今日これから食べるカレーとおにぎりもまた、因縁の産物。

形あるものを恵んでくれた自然があって、その食材を採って、運んで、調理してくれたひとがいて、運んでくれたひとがいて、こうして目の前に置かれている。

この食べ物を「因縁のたまもの」としてありがたくいただこうではないか。

どのような因縁にも感謝すべきである。だって、だからこそ自分が生かされているのだから。

そして業は自分が作るもの。善き業を作ることを心がけよう。
悪しき業は、自分のこれからのテーマ・目標として抜け出していこう――。

と、かなり前向きな話になった。


○最近思うところだが、仏教をどう語り、活かすかは、それを発する人間次第なのだなと思う。自分自身の視点・感性・人生観によって、仏教はいろんな活かし方ができる。

大乗の世界では、すべては無常・無我なるものだから、自分を語らず法のみを語れ、とよく説く。
無私・無我の境地で法のみを語れ、と。

ただ、法(真理)そのものは、無色、抽象的で、それ自体は人間の感性・感情で理解しうるものではない。感性・感情抜きの言葉というのは、抽象的な理屈、観念論、まっとうすぎる正論と化してしまって、ひとの心には届かない。届かなければ、活かされることもない。

自分にとって「これが真理」だと思うところはあっても、それをそのまま発信したところで、ハードルが高すぎて人間の人生には活かせないのだと思う。

ひとに伝えるときには、そのひとの背景、人生や、その話が出てきた前後の文脈も踏まえて、なるべく具体的に、感性や感情に働きかけるようにして語らないと効果は薄い。それが今までやったきた中での実感。

だから、なるべく自分の言葉で、自分の思いとして語ろうと今は心がけている。

聞きながら、うん、うん、と深くうなづいている男性がちらほらいる。それがありがたい。


●最近思うこと――結局、ひとは自分を生きることなんだ。自分を語る、表すことなんだ。

自分を見せる、語ることがその目的ではない。目標は、仏教をそのひとの幸せに役立ててもらうこと。

ただ、そのためには、「己を空しうして」というより、むしろ人間としての実体ある「わたし」を語る必要があるらしいのである。

動機そのものは、自分のためではなく、相手に活かしてもらうため。その意味で「自分を空しうして」は正しい。

ただ、そのための方便(手段)としては、「自分をきっちりと充実させて」ということなのであろう。

もっと自分を語らなきゃ。自分を生きなきゃ。

「自分」という言い方が我を強めてしまうように感じるのなら、「この命」と表現してみよう。

「この命をもっともっと表現しなきゃ」

最近、いろんな発見をしている気がする。快調であります。

そういえば、もう夏なんだね。この命が大好きな夏――。