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真夏の高円寺!

今日8月17日は、高円寺で納涼会~仏教案内とインド水プロジェクト報告会。

最近は、「ひとから聞いて」来てみた、という方が出てくるようになった。ありがたいご縁である。

まずは縁をさずかり、その中で、心に道(あるいは、帰るべき場所、よりどころ)を固めていってくれるひとが増えてきたら、と思う。

お一人が、「新興宗教に誘われた」体験を話していた。

私は、このよく聞く「誘う」という発想がよく分からない。この場所(興道の里)は、何かに誘う、入ってもらうという発想でできていない。出会う相手を理解して、親しみをもって受けとめて、もし仏教的な考え方が役に立つのであればどうぞ、という視点で、仏教のなかのいろんな思想や考え方を紹介している。来るひとも、私自身も、かなりの超フリーハンドである。


私がインドにたどりついた経緯、そして師のこと、今進行中の水プロジェクトについて、プロジェクターを使ってお伝えする。

そのあと交流会。高円寺商店街を探し歩いて、最後にたどりついたのが典型的な居酒屋。

騒がしさとお酒の匂いは避けるのが正道(せいどう)。ただ十人以上入れる場所がなくていたしかたなく。

みな気を使ってくれたのか、半数以上は烏龍茶。
(そのなかで、じつにナチュラルに4杯もの中ジョッキを飲み干していた御仁がおられた・・・'▽')(←すごいなーの意))

メニューは、焼き鳥、もろきゅう、トマト、冷奴といった、居酒屋の定番。

これがなんだか「ワタシ日本ニ来テマス~」という感じで、内心楽しさヒット状態だった。

みなのよもやま話を聞くのも楽しい。でもさすがに仏教を学んでいる人たちとあって、語る内容が仏教的。「半沢直樹」の世界観はめちゃくちゃ狭いとか、インドなら差別廃止も活動の動機になりうるだろうが日本ではどうするのか(質問)とか。

年齢も、生活も、仕事もまったくバラバラのひとたちである。そのみなが、仏教という共通項でつながって、こうしてふつうに会話できるのはすごいと思う。

インドでは、私はかなり度合いの高い出家僧である(焼き○なんてありえません)。その身にして、こうして日本の高円寺で夏の夜に居酒屋でみなとおしゃべりしているのである。これはかなり貴重な体験だ。久しぶりのもろきゅうだ。


多くの人が、仏教に安らぎをもとめている。その安らぎへの道を案内する役回りをこの身が負っていることも知っている。

ただ、私としては、俗の世界から遠く離れた、たとえば森の中の瞑想寺院みたいな場所にこもって、教えを伝えようとはあんまり思わない。

また矛盾や非合理が看過できないほどに膨らんでしまった伝統仏教のなかに、自分を収め置くのも違うように思う。

たとえば、輪廻思想や来世への人々の期待を前提にして、布施の功徳を説いて、それで自分の身を立てたり、

檀家さんにいつまでも経済的支援をお願いして、形ばかりの法事で自分のお寺や家族を養ったり、というありかたは、少なくとも私は、自身の生き方の前提にはできない。

もしそういうあり方を前提にして、なにかブッダの教えを伝え説くとしたら、もうそれだけで、ごまかし・欺瞞(ぎまん)を私は感じてしまう。ウソじゃないかと思ってしまう。

自分と、相手(つまり俗の世界に立ち、仏教を学ぼうとしている人たち)との立っている場所がちがう。それはフェアじゃない、と思ってしまう。

幼い頃からそうだった。小さな矛盾でも、自らの足元に置くことがどうしてもできない。すぐにそういう自分に疑問を感じてしまって、居心地が悪くなって、降りてしまうのである。

だから、私は今なお、なるべく定まったスタイルというのを持たないようにしている。
これこそが仏教ですよ、これこそが正解ですよ、という発想をしないように気をつけている。

ひとそれぞれに必要としているものはちがうのだから、答えなんて決め打ちできるはずもない。

仏教においても、この部分、この発想、この思考法は、ブッダのものに近いと思うところはたしかにある。が、それでも、「これこそが仏教」という形で最初から答えを決めることはどうしてもできない。

流浪の旅人が、ゆく先々で、一夜を過ごす場所の基礎、骨組みから作り上げるように、

私もまた、仏教の本質だけを手に、この世この時代を旅して、出会うひとびとそれぞれとの間で、そのひとに最も伝わる仏教(思考法)というものを作り上げたいと思っている。

その柔軟さ、融通無碍さこそが、真実が真実たりうることのゆえんだろうと思う。つまり、真実であることを証明するものは、歴史の長さや、伝える誰かの権威などではなく、何の前提もなく、その場その場での最上の理解と思考とによって最善の解(答え)をつくりだそうというやわらかさなのだ。そのやわらかにして本質をつらぬく知力を、古くは「智慧」(ちえ)と呼んだのである。

ほんとの智慧というのは、あらかじめ定まった答えというものを持たない。これは、本質にしっかりと通じた思考力でないとつくりだせない。

あえて言うなら、私がこの身について信頼しているのは、こうした智慧を生み出す強靭なる知力である。それ以外の知識や過去の一切は、役に立てばいいという程度の付属物にすぎない。私はこのような知力こそを自らの活動の基盤にすえて生きたい。それが一番楽しいし、ひとの心にも届くと思うからである。

●帰りの電車のなかで、ひとりが、「たとえば世間は“七並べ”(しちならべ)でできている。七並べするのがルール。仏教は、そのルールをあえて取らないところがあるのではないか」と語っていた。

たしかに、世間のルールと、出家のルールには、違うところがある。

しかし、出家のルールを内側では守りつつも、なお世間のルールに合わせて働いたり、歌ったり、踊ったりすることは可能だろうと思う。

出家のルールに基づきつつも、この世での七並べを思いきり楽しもうとしている。そういう心境である。

私は、あくまで、この世で生きるすべての人たちと同じ土俵に立ちたい。そうでないと、ひとのよろこびや苦悩がわかるはずがない。フェアであること――それが言葉の真実味をささえる生命線だろうと思う。

だから私は、寺や伝統に属さない単立の出家として、講座や著述で身を立てる。労働という、ひとに何か役立つことで命を養うという手段によって、この国を生きていく。

だから、居酒屋でもろきゅうをつつき、夜の高円寺を練り歩くのである。

★今日は日本の夏気分を満喫しました! みなさん、ありがとう。残りの夏を楽しんでくださいね。

(あ、また怖い話忘れた!!!!)