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相談「家族が宗教にハマッてしまいました」という十代の学生さんへ

(あくまで一般論として考えてみますね・・・・)

これはね、、、難かしいね。宗教にハマるというのは、そのひとにとっては「絶対」の信仰だからね。たとえ周りがおかしいと口うるさく言っても、力づくで止めようとしても、その宗教が世の中に大迷惑というか害悪さえ流してしまっているとしても、本人にとってはまったくそのことが理解できない。もう完全に信じきってしまっているから、その信じている内容のおかしさがもう見えない。むしろ、周りの人たちのいうこと、リアクションこそが攻撃、弾圧で、自分が信じてるものの正しさを証明している、、、というくらいの発想をしてしまう。

「なにを言っても伝わらない」くらいに理解しておく必要があるんじゃないかな。「止めよう」「変えよう」としてもかなり難かしい。ひとの心というのは、もともと外からはいいも悪いも判断できない領域にあるもの、というくらいに思っておいたほうがいいかもしれないね。

で、その上で、どう向き合えばいいか、考えてみようか。

まずは、どんなに奇矯な、ヘンてこな行動や言葉をそのひとがしているとしても、そのひとはそれで真剣なのだから、否定しないこと。間違っていると判断しないこと。どんな相手でも、敬意をもって向き合うこと。それは鉄則だと思う。

●そして、相手のいうことを、「正しく理解する」ことを心がけてみよう。

相手の心をただ、ありのままに、正確に、理解してあげようと努める。

たとえば、そのひと(家族・親)にも、やっぱり苦悩とか満たされなさのようなものがあったのかもしれない。それは過去の出来事なのか、あるいは今の仕事や家族関係なのか、それ以外の何かなのか、、、。

ひとの心には、喜びと悲しみとが両方ある。たぶん宗教にすがるひとというのは、それぞれに悲しみと言い表せる感情があり、その感情を生み出している理由がある。それは過去の出来事だったり人間関係だったり、いつのまにか学習して身にしみこませてしまった思いこみ(判断とか価値観とか)だったりする。

その悲しみの原因、そして今のそのひとの心というのは、向き合うあなたにとっては、わかることもあるだろうし、まったくわからないこともあるだろうと思う。

ただ、ひとというのは、必ず何かを感じて、考えて、そこに満たされなさ、虚しさ、辛さといった感情があるから、救われるために「宗教」と呼ばれるものを求めているところがある。その心のありようを、ありのままに、見つめてあげてほしい。「理解する」こと。

家族が、勧誘してくるって? 行事に誘ったり、手伝わさせたりする?

まだ十代ということなら、抵抗するのは難かしいかもしれない。大変だろうと思う。

●宗教にハマッてしまったひとに向き合うときは、もうひとつの基本がある。

それは、「ああこのひとは妄想に浸かってしまっているんだ」と理解すること。

相手は、妄想という心の中の、想像・物語・教義・世界観と俗に呼ばれる、現象にどっぷり浸かって、その状態に気がつかない。

ふつうの状態なら、「この思い(外から見れば妄想)を外に出したらヘンだと思われるだろうな」と考えることができる。それを分別とか良識とか理性と呼ぶ。

でも、妄想に100%浸かってしまったひとは、その理性や客観的な認識というものがもう尽きてしまってる。だから自分の姿を客観的に見ることができない。自分でヘンになっちゃってることがわからない。

これはちょっと困った状態だと思うかもしれないけど、人間というのは、およそ全員、ほぼ一日の9割方は妄想していると思っていい。ただその妄想を口に出したり、行動に移したりしたときの、外のリアクションを考えるという理性が残ってる。だからみな妄想をそのまま外に表すことはない。それでいちおう「まとも」だと思われている。でも、心の状態は、宗教にハマっているか否かを問わず、たいてい「妄想漬け」なんだ。

宗教にハマッてしまったひとに向き合うには、「妄想してるんだね」と理解してあげること。そう理解できれば、ちょっと距離を置けるんじゃないかな。大切なのは、その妄想に自分が取り込まれない(感染しないともいえるかな)ことだから。

もし相手が信じている宗教を、「おかしい」「目を覚まさせてやる」と意気込んでしまえば、それがこちらの「反応」ということになる。「反応」すると、それだけで取り込まれてしまうと思っていい。「反対」という反応がきっかけで、やがて「盲信」という受容に変わってしまうことはよくある。自分自身が、相手の妄想にいいとも悪いとも「反応しない」ことが、心の自由を守る防御線になると思っておいてください。

相手の妄想は、そのまま妄想として理解してあげること。あなたはまだ十代で、まだ当分家族と一緒に暮らさなければいけない様子だから、まずは自分の心が妄想に取り込まれないように、正しい向き合い方を決めておこう。


●宗教というものに向き合うとき、たぶん次の三つのチェックリスト(視点)が有効だろうと私は思ってる。

一、その相手の方向性――何をめざしているのか。ゴールはどこにあるのか。


それが、家族の健康とか、豊かさとか、幸せ、だというなら、それ自体は否定してもしようがない。もし達成できるなら、それはそれでよし、じゃないかな。

ただその方向性が、俗にある、信者数を増やすとか、何かを買わせるとか、信じない外の人たちを否定するとか、そういうものなら、その宗教はやっぱりおかしい。目的が正しくない。

 「それは方向性がちがうんじゃないの?」と聞いてみることはできるかもしれない。「ぼくはちがうと思う」とはっきり伝えることも正しい態度だと思う(相手を否定するのではなく、自分の立場を伝える。誠意をもって)。

二、その相手の方法――その方向性にたどり着くために、何をしようとしているのか?
 多くの「宗教」とよばれる思想は、ここで間違う。品物を売りつけたり、ヘンな儀式やらおまじないやらイベントやらに走って、参加している人たちは大満足、外から見たら奇異でしかない、ということがよく起こる。

 なぜかというと、ひとつの理由は、やっぱり多くの宗教は、「妄想」でできているからだろうとぼくは思ってる。たいていは、誰かを特別視する(させる)、あるいはその欲望(承認・賞賛を求める欲や、色や財を求める欲)を満たすという動機があって、その動機をうまいこと物語に仕立てて、それを「教義」としている。

 こういう宗教というのは、動機そのものは、じつに人間くさい欲望や妄想でありながら、語る言葉は、一見誰かの幸せや健康、豊かさといったもので彩られている。

 心に何かしらの満たされなさを抱えた人たちは、その言葉上の幸せや豊かさといった価値に反応して、希望をみて、その語られる物語を信じようとしてしまう。その結果の宗教だ。たいていの人たちは、その宗教を語る側の「動機」が見えない。みな自分の苦しみ・悩みで精一杯だから。

 あなたは、おそらくその宗教が持っているほんとの「動機」に感づいているように聞こえる。あなたの苦悩は、家族が、その動機のおかしさに気がつかないで、ますますハマっているように見えることだね。つらいよね。これは苦しい状況だよね。

 彼らがやろうとしている「方法」が、ほんとうに、めざす方向性に沿うものなのか。そこも正しく見ることだろうと思うし、もし会話ができるくらいの関係であるならば、「そのやってることで、本当にそのめざすもの(方向性)は実現できるの?」と聞いてみてもいいかもしれない。「ぼくはムリだと思うけど」と伝えることは可能かもしれない。

三、その相手の行いをみること――「行い」というのは、けっして誰かに嫌な思いをさせてはいけない。誰かに不快な思いをさせるとしたら、もうそれは正しい行いとはいえない。

 よく、宗教の世界には、相手を「分からせる」ためにいろんなことをしようとする人たちがいる。彼らは、分からせるために、いろんな理論や儀式や行動を編み出して、とにかく、自分たちと同じものを信じていない人間たちを、信じさせようと血眼になる(そこが宗教の厄介さ・怖さとして他人には映ることになる)。

 何を信じるのも、何をめざすのも、何をするのも、彼らのテリトリーにとどまるならば、それはそのままにしてあげるべきだろうと思う。それは、思想の自由であり、信仰の自由。人間というのは、ひとりでは幸せになれない・満たされることのできない生き物なのかもしれない。ふつうに生きてきて、働いて、家族をもって、どれも自分とはちがうものであるという現実のなかで、ひとは、やっぱり心にすきま風というか、満たされなさというか、淋しさのようなものは感じてしまうものだろうと思う。ひとはそんなに簡単に幸せになれるものじゃない。むしろ、多くの人が、宗教にはハマらないまでも、心のどこかに空洞を抱えて生きているのかもしれない。

 そういう、すごく自然な日常の中にいる人間が、宗教という名の、ひとつの思想――何を信じればいいか、何をめざせばいいか、何を日々すればいいか、ひとつひとつ具体的に、力強く、希望に満ちた言葉で指示してくれるもの――がひょんなきっかけで見つかったときに、そこに惹かれていくのはやむをえない、というかそれも自然なことなのかもしれない。

 あなたのそばにいる家族もまた、そういうひとたちと同じ状況にあったのかもしれない。そのことは、理解してあげてほしいような気がする。けして、宗教にハマったからといって、それだけでそのひとが悪人になったわけでもなんでもない。たぶんふつうに話を聞けば、ふつうに話ができる人なのかもしれない。

 ぼくは、仕事柄、いろんな宗教の人たちと会うし話もするけれども、別にヘンな人たちだとは思わない。もちろん思い込みが激しかったり、ヘンなところにこだわったり、ちょっと普通の(つまり宗教を持たない)人とはちがう行動をしているところもあるけれども、まあ、それだけで誰かに迷惑がかかっているわけではない。

 仏教の世界にも、いろんな宗派とか、最近だと宗派から派生した在家の団体さんとかがあるけれども、みなそれぞれに一生懸命何かに打ち込んでいる。それで彼らの生活がととのい、心が落ち着いて、何かよりどころを得られているのだとしたら、それはそれでよいのだろうとぼくは思ってる。

 ただ――もし、その行動が、宗教をもたない人との関わりにおいて、トラブルを起こしたり、誰かを苦しめたりするようなことになれば、それは、その行いのレベルにおいて、間違っているといっていいと思う。信仰そのものが間違っていると判断する必要はなくて、ただ行いのレベルで問題があるよ、ということなのだろうと思う。

 行いの正しさというのは、いつも、他者との関わりにおいて決まること。

 宗教の正しさというのは、つねに、宗教を信じない人との関わりにおいて決まるといっていい。

 信じない人に迷惑がかかるような行いは、間違いだ。もしあなたがその点で、ほんとうに迷惑を被っているとしたら、まずは、断りの意志を表すことだろうと思う。「それはぼくには必要ない」という立場にはっきり立っていい。

 もしそれでも、尊重してもらえずに、執拗に、心そのものに踏み込んでくるようなことがあれば、それは世俗のレベルで対応していいのではないかな。これは想定にしかすぎないけれども、児童を保護する制度・法律というのがある。学校とか、警察とか、「こういうことで困っている」ということを外に伝えること。

 宗教に呑まれないには、宗教を信じていない世俗の世界に答えを求めることが正解かもしれない。

 ――どれだけ役に立っているか、心もとないけれど、ひとつの考え方として受け止めてほしい。どういう距離、どういう関わり方が、自分にとって一番正解なのか、かならず落としどころはあるはずだから、希望をもって、考えてみてほしいと思う。


●最後に、ひとつ、ぼくは僧侶だから、僧侶としての、宗教や仏教と呼ばれているものへの考えを伝えさせてほしいと思う。あなたが今後、宗教と呼ばれるものにどう向き合うかについて、もしかしたら活かせるところもあるかもしれない――。

 ほんとうの幸せというのは、妄想はいらない、と思ってる。

 何かを信じるとか、だれ・どこの教えこそが正しいとかいうのは、どこか勘違いしているとぼくは思っている。

 たいていの宗教には、人間が作り出した妄想がいっぱい混じっている。伝える側にも妄想があるし、信じる側にも妄想がある。妄想と妄想とでつながって、その妄想に、妄想外の人間を取り込もうとしてがんばっている。

 でも、結局それは妄想にすぎない。妄想だけじゃ、ほんとは、究極のところ、人間は救われないんじゃないかな。妄想にすがりついて、ひとは何をしていると思う? 結局、何かを売ったり、ひとを増やそうとしたり、互いのことを批判したり見下したり争ったりして、誰かの苦しみを促しているところがあるのではないだろうか。

 妄想にすがらなくては、今の現実の苦しみから逃れられないひとも、たしかにたくさんいるだろう。

 でも、妄想にすがらなくても、ほんとうは苦しみから逃れることはできるかもしれないし、世の中には、妄想にたよらなくても、苦しみに負けないで、りっぱに、つよく、やさしく、つつしみをたもって、一生懸命生きているひとがいる。いっぱい、いる。

 そういう、ほんとうにつよい人たちのことを、いつもあたまにおいておいてほしい。世の中には、そういうほんとうに立派な人たちがたくさんいるから。

 宗教というのは、厄介なようで、ときに崇高にみえたり、深淵にみえたりするけれども、やっぱり人間が生み出したもので、妄想やら我欲やらがちゃっかりと混じり込んでいる。すっごく小さなもの。人間的なもの。

 だから、宗教というものに、あんまりとらわれなくてもいいのかもしれない。宗教のないところで、ひとはちゃんと生きられるから。

 あなたもそのひとりだろうし、世の中にはそういうひとがたくさんいる。

 家族がそういう人たちに戻っていくかは、これからの話。戻っていくかもしれないし、もしかしたらずっと、その見つけたものを信じて、生きていくのかもしれない。それはその家族の人生だから。それはそれでしようがない、というか、それはそれでいい。

 大切なのは、あなた自身が、いろんな人間がこれからもくりだしてくるだろう妄想の数々に、下手に絡めとられないで、ただ、もしかかわらざるをえない状況においては、ただ「理解する」ことに努め、ひとはひととして、そして自分は自分として、自分は自分のしあわせのために、しっかりと自分の人生を生きていくこと、自分を大切にすること、そういうことなのだろうと思う。

 世の中は広いし、
 幸せはひとの数だけある。
 幸せへの方法もひとの数だけある。

 あなたにとってもっとも良いと思える「方法」を探していってほしい。

 また一緒に考えましょう。