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なぜ歩きつづけるのか (仏教でクリスマス前夜祭)

12月14日
忘年会シーズンらしく、神楽坂は酔客でいっぱいだった。

赤い顔して、大声で叫んで、笑って――通り抜けるだけで、こちらも楽しくなれる。
お酒は飲まなくても、彼らの明るい酔いは伝わってくる。

今日の仏教の学校のラストで一番よかったのは、参加者全員が最後に「合掌」して終わったこと。

たとえば人が目の前でお辞儀をしたときに、自分はお辞儀をしないという作法はありうるだろうか。

形を強いるという意味はまったくなく。

ただ、相手への礼節、作法として柔軟に応えることができるか、という点で、合掌できるかどうかはけっこう重要な意味をもつ。

インドでチベット僧院を見学したとき、ラマ(チベット密教の僧侶)が寺院内のひとつひとつのモニュメント(仏壇とか曼荼羅とか)に、恭しく額をつけるのを目の当たりにした。

案内してもらっていた私も、それにならって額(ぬか)づいた。

これは信仰に従うか否かといった次元の話ではなく、相手への礼節である。

こういう礼節をさりげなく果たせるかどうかで、そのひとの成熟度が見えるような気がする。

今日、教室で伝えたのは、たとえばこういう礼節を保てることが基本であって、基本を外したところでいくら知識を積み重ねても、それは心の成長には役に立たないということ。

それを受けて、みな礼節を示してくれたのである。美しいと感じた。

今日のテーマは、「悟り」。仏教がふくむ無常・無我・空・涅槃・解脱といった、一聞アヤシイ言葉も、合理的な意味を持っている。その中味を伝えることがテーマ。

以前、あぐらをかいたまま床上にとびはねて、「自分は解脱者だ」とのたまった愚かな生き物がいた。ほかに、自分自身が、何か特別な境地にたどりついているかのような、あるいは悟りに通じているかのような、ふるまいや言葉を発している生き物もまた、世の中にはたくさんいる。それを信じてしまう人間も。

こうした者たちは、欲と妄想から抜けたことがない。だから言葉だけで語った気分になれるのであり、また言葉だけで信じてしまえるのだと私は理解する。

真実・真理というものをきわめるのは、けっして得意になるようなものではない。
むしろ深い孤独を引き受けるということなのだと私は感じている。

ブッダがひとつの境地に達したときに抱いた感想が、「寂しさ」だったという話をした(原始仏典にある)。

他にも、中道とか、道を生きることとか、大きなテーマが今回は続出した。

今日は、何かを知った、分かった、と思うのではなく(もとより、理解しようがないはず)、

むしろひとつの真実にたどりつくこと、道に立つこと、歩きつづけることの、尊さ、厳しさ、むずかしさというものを感じ取ってもらえたら、と願った。

どんな道もラクではない。簡単に答え・救いが得られるだろうなどと期待するほうが、おかしい。

むしろ、ハラをすえること。十年でも二十年でも、「やらねばならないからやる」、という不動の覚悟に立つこと。そのときはじめて、ホンモノの道・人生が始まる。そういうものだと思っている。

なぜ仏教講座を続けるのか。そういう話にもなった。

「やりがいを発揮できるからでは?」という指摘も。なるほど。

だが、じつは、そういう動機ではやっていない。

私は仏者――ブッダの教えに基づいて生きる者――であるから、
世の中にあるひとびとの苦しみ(求めるこころ)をまずは想う。

もしこの世の中に、何らかの答え、救い、解決、克服、納得、前に進むきっかけ、などを求めている人がいるのなら、

ひとつの方法がある、ということ、その可能性があることを、形として示さなければいけない、と考えている。可能性に向かってふみだすことがすべてなのだ、といっていいかもしれない。

これからこの場所に何人のひとが来るかは、本質ではなく。
大きくなろうと、小さくなろうと、それは本質ではなく。

ただ、ここにひとつの道があるのだということ。この部屋の扉だけは外に開いておかなくてはいけない。

たとえ一人でもくる人がいるならば、開けておかなくちゃいけないし、

たとえくる人が一人もいなくても、それでもまったく変わらない気持ちで扉を開けておく必要がある。

最も大切なのは、「今どのような心でここに立っているか」、その一点のはずであるから。

だから、この命は、命つづくかぎり、仏教に基づく生きかた――仏道――を伝えつづける。

それが出家の覚悟である。

孤独を感じないか? そういう話にもなった。

というより、ひとはみな、心はすべて――孤独なのである。

孤独であることを理解したとき、孤独そのものを見尽くしたときに、孤独は消える。
ひとといても、独りでいても、同じ心のままでいるようになる。

私はしあわせである。
孤独のゆきつくところと、愛情とは、似ているように思う。



☆12月14日、いよいよ仏教の学校2013フィナーレです。東麻布にて。