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新年初ライブのおさらい 1月18日

こんにちは、草薙龍瞬です。

ふだんよく語ることですが、かりに自分が今亡くなったとして、「2557年」先の人類が、自身の思想や生きかたというものをなお語り継いでいるという現象を、想像できますか?

できませんよね(笑)。自分がこの世を去ったら、その瞬間に急速に、知己・血縁からさえ忘れ去られていきます。半世紀もすればほぼ無と化すのではないでしょうか。

その点、ブッダという人は、信仰の対象としてみなくても、それだけの「未来」を越えてなお語り継がれて、今を生きている。

これはこの星の上に在る数ある不思議な奇跡のひとつのような気がします。

こんな話をするのも、今日の新年ライブで、ブッダガヤの写真をお見せして現地の様子をお話したからです。


ブッダ成道の聖地。そこで見たもの、聞いたものを、思いつくままにお話しました。

ブッダガヤは、世界に広まっている全仏教の最源流にあたる、ただひとつの場所。

でも、その場所で、タイの坊さんは瞑想をし、チベットの坊さんは五体投地の修行に励み、またマントラを唱え、日本人の観光客はナムミョウホウレンゲキョウを唱えたりと、みなてんでバラバラのことをやっています。

みんな、自分の「仏教」を信じて疑わない。ひとつだけ取り上げるのは申し訳ないけれど、原始仏典のどこを読んでも、チベットやネパールの人たちがやっている 「五体投地」は出てこない。でも彼らはそれが涅槃(ねはん)に達する方法とかたくなに信じて、もう千年以上つづけている。

身も蓋もない言い方をしてしまえば、人間は、どんな内容の思想でも信じてしまえるものだし、
いったん信じれば、それが唯一の真理として感じられる。

そしてどのような内容でも、信じる人にとっては「救い」が得られる。

そういうものなのでしょう。宗教というのは、際限がない。どこまでも、物語をつむぎだすことはできるし、どのような物語でも、信じる人間にとっては真理になる。

「自分はブッダの生まれ変わり」と自称するとある宗教家の本が、ブッダガヤ構内の仏教書店で売られていた。

書店員がいうには、「この男がニセモノだというのは知っている。本当は置きたくない。でもブッダガヤ管理委員会の面々がこの本をココに置けというんだ。だからイヤでたまらないけど、置いている」と言っていた。

カネの力で「さとり」さえ演じてしまえるということらしい。宗教の世界は、つくづく滑稽さをたたえている。

ただ、今日話したのは、「どんな宗教、どんな仏教でも、語ろうと思えば語ることができる。語る自由を止めることはできない」ということ。

ひとから見れば、どんなに荒唐無稽で、でたらめに見えることでも、語ってしまう人間を止めることはできないし、信じる人間を止めることもできない。

だから、「あなたの宗教(仏教)は間違っている。本当の仏教とはこういうものだ」ということは、できない。

異なる思想を信じる他者の心をコントロールすることは、不可能である。

だから、ブッダは、こういう議論には乗らなかった。他者がコレと信じる主観的な真理に言及することは、無意味である。だから、こういう議論に対して、ブッダは「無記」(ノーコメント)を通した。

ならば、ひとは、信仰という領域の中で何をなすべきか。

私のように、仏教というひとつの思想の大河に浴する人間は、どのように仏教を説くべきか。

――「私にとって、苦しみを癒す方法とはこれである」――と説くしかない。

他者の心に口を出さず、ただ自らにとっての幸福への方法を説くしかない。その一点に関しては、その点にかぎっては、かぎりなく誠実に、である。

それに加えて、私の場合は、仏教という名のもとにさまざまな異説・妄想が混じりこんでしまった現状から、

「おそらく“悟れる人”が見ていたものに最も近いであろう」と思われる、合理的で、ほかの宗教とも両立しうる、中立的・普遍的な部分をしっかりと抜き出して、

どの伝統に属する仏教徒であれ、

どの宗教を信じる人びとであれ、

あるいは、宗教と称されるいっさいの物語を信じない人たちであれ、

幸福への方法としてなお使える、通用しうる、それゆえに普遍性をもつといえる、より精錬された本質部分を伝えたいと思っている。

さまざまな思想・宗教が、時代を越えて生きる権利(可能性)を持っている。

それと同時に、さまざまな思想・宗教と両立しうる、より普遍的で本質的な思想・方法もまた、生き続けていいと思っている。

私は、そういう、時代を越えて生き残る価値をもつ思想、ただその中でも、最もシンプルで、中立的な「本質」部分にこそ、ブッダの発見があったと思っている。

ブッダ自身が見ていたであろうもの、あるいは彼自身もまだ時代に制約されて自覚していなかった、
理解の方法や、思考の仕方というものを、人々に紹介したいと思っている。

いかなる思想をも、その自由を認めて、なおかつその自由たちと両立しうる、最も開かれた、オープンな、幸福への方法を、である。

それがきっとブッダが見ていた方法と重なるのだろう、と、そう考えている。

そういう話をしました。

最後は、慈しみの経を朗読して、パーリ語のMetta Suttaを誦(とな)えてみた(日本では初めて)。

本格的な読経の50分の一くらいのおとなしめの、静かな読誦。でも聞く側の反応はあったみたい。


きちんと道に立ってこの一年を生きてゆくこと――。


それが分かち合えていたら今宵は善し、と思う。