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今日は大雪(続・ふなっしー論)

20年ぶりという大寒波のせいで、東京も大雪。

各地でいろんな被害が出ていることは承知。
ただそのうえで、雪の朝、外を歩きながら、「しあわせだねえ、楽しいねえ」と独り言をいっていた。

最近、「気づきからどれだけポジティブな解釈を導き出せるか」ということを考えている。

冬の風を吸い込んで、「冷たい」と感じるのは、感覚。
冷たいと感じている、と気づく。そのときの感覚に気づく。

この「気づく」意識は、ニュートラル(中立的)。楽しいとかつまらないとか、幸とか不幸とか、いいとか悪いといった意味に至らない。

気づくというのは、ただ、ありのままの感覚を、なるべく細かく、正確に、ナマナマしく感じ取る(意識する)だけ。これを、禅の世界では「正念(しょうねん)」と呼んでいる。

この、よく気づく、正しく念じることだけでも、心は相当キレイになってくれる。たいていのネガティブな感情(怒りや嫌悪、不安、緊張など)は、気づきによって、サラリと落ちて消えてくれる。

気づくことで、緊張だって消せる。

今日池袋に行ったら、立教大学の入試の日だった。たとえば、もし受験生が「緊張」してしまったら、こうしてみるとよい――「不安」を膨らませるのでなくて、雪の気配、冷たい空気を皮膚で、呼吸で感じ取って、カラダが感じている「感覚」に意識をよく向けてみるのである。ただ「気づく」。気づくことに心を使う。

気づくことが上手になると、緊張はすぐに溶ける。
気づきがクセ(習慣)になると、緊張もしなくなる。心はいつもクリアなまま。

私は日々コレ修行の出家僧――つまりは「気づき」を心の底にすえてそこに常に立って生きる者――なので、この気づきの能力はけっこう高くなっている。(緊張なんてありえない(笑)。)

今やっているのは、その気づきというニュートラルな状態から、どのような発想・感想・解釈をつくりだすか、ということ。

心という名の「意識」は、まずは「気づく」ことに使われ、その次に「考える」ことについやされる。

(注:これは修行僧の心の流れ。たいていのひとは、意識をダイレクトに「考える」ことに使ってしまう。だからひとはよく考える(妄想)するし、過去を振り返るし、先をあれこれ考えるし、その結果、とても簡単に動揺してしまう。これはすべて「気づき」という、本来最初にくるべきステップを飛ばしてしまっているところからきている。「つねに気づきから心の動きをスタートせよ」というのが、禅修行の根本である。)

その「考える」というのを、どれだけポジティブな、肯定的な、幸福な思いに使えるか、を心がけている。もともとある「意識」が、どの方向に転がるか、を最近よく「観察」している。

もともと私は、とても理性的、というか慎重、というかネガティブな発想をすることに慣れた人間のような気がする(もちろん、それを超えるくらいのポジティブな解釈力も持っているとは思うけど)。

そのネガティブで消極的な発想に意識を使うのではなくて、ちがう方向に意識を使う、というか流す、というか導いてやる、のである。

たとえば、雪の日に外に出る。

「ああ、大雪だ、ついてない」「電車動くなあ(遅刻したらどうしよう)」と考える(意識を使う)ことは可能。

でも、同じ意識を、「わあ、雪だ、楽しい」「20年ぶりだって。(体験できるなんて)ついてる」「歩いたらどんな感じがするだろう(で、右、左、と歩いて確かめる)」という発想に使うことも可能。

どちらに意識を転がすか。転がす方向に「根拠」はない(あえていうなら、過去の体験とか育った環境、性格といったものになろうか)。

ほんとは、どちらにでも転がせる。だから、自分で転がす方向を選ぶ。意識して転がしてみる。それが今のテーマ。

今日は、「楽しい」という発想に意識を転がすことを意識してやってみた。もともと、気づきの力をきたえている(つもり)なので、ポジティブ思考への切り替えも難しくない。

サクサク、ふっふっ、ほっほっ、と足元みながら、感じ取りながら、きれいな冷気を吸い込みながら、「楽しい、楽しい」と思いながら、歩いた。

思いながら歩くと、その思いどおりに心はなってくれる。だから今日は楽しい。心って面白い。


追伸
ふなっしーは、1号、2号という活動の仕方より、今の中のひと(そんなひとがいると仮定して)が動けなくなったら「2代目に託する」という形のほうがいいんじゃないかな。

ふなっしーは、中のひとのキャラがあってのふなっしーである。唯一無二のタレントさんである。

(再言するけど、彼?は、慈しみと喜という、仏教が語る愛の二つの要素を惜しみなく発している。それが「愛」として伝わってくるから、ひとはみなふなっしーを好きになるのだと思う。)

着ぐるみの数を増やして、彼(梨)の良さを維持できるようには私は思わない。むしろ希少価値(タレントとしての魅力)を下げてしまうような気がする。

余談だけど、ふなっしーの「中味」(そんなものがあるとして)を暴こうとするひとは、完全にマナー違反。中を覗き込もうとしたり、ウラ話を笑いのネタにしようとしたり(なんて心のない…)。

ふなっしーが愛を送っているのだから、その愛を受け取るだけでいい。そういう関わりをしていきましょう、というのが、ふなっしーとの約束。それを超えるのは反則。芸能人のウラを探るというレベルを超えて、服までひっぺがそうというくらいの非道な行い。(ふなっしー、死んじゃうなっしー@@)

ふなっしーを守ってあげて(笑)、とキレキレダンスも絶叫もできない坊さんは思う(なっしー)。