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正しい言葉の見分け方――「ホントの仏教」ってどうやって見つけるの?

GW中は、
遠方からの初めての人も、ものすごく久しぶり(神楽坂で講座を始めたばかりの頃に来ていた人など)の人も来たりして、ふだんとは違う面白さがあります。

心の濃密なやり取りがつづいています。
私自身、とてもよき時間をすごしています^v^)。

さて、今日は、ちょっとした“思考のゲーム”をやってみたいと思います。

最近受けた質問の中にこんなものがありました。あなたなら、どう答えるでしょうか。考えてみてください――

「こういう言葉はどう受け止めればよいのでしょうか?(本当?)

「地獄や天国等を生み出しているのは、自分の中に有る心(想念)である。故に自分の外に見えるものは全て自分の心、合わせ鏡である」

「私達は他人を見て自分と違う人間だと感じるが、根の所では全てが繋がっている。故に相手にする事は、自分にする事である」

「この世とあの世は表裏一体であるが、生まれる時に全て忘却するしくみになっているのは、その方が学びが大きい為。」

「自分自身が創造主であるこの世はゲームの様なものである。自分が死ねば、自分が創り出している世界も消滅する」

「宇宙には時間という概念は無く、過去・現在・未来は同時に存在している。例えて言うなら一冊の本の様なもので、そこには同時に過去・現在・未来が存在してお り、又著者である本人が望むなら、本の書き換えも自由である」

このような考え方について、どう考えればよいのでしょうか。
言葉なので全て空論???」

というもの。

たしかに世の中、いろんな言葉・思想・考え方・教え――なるものがありますね。これについてどう考えるか――

ブディズム(正しい理解のための方法)に基づくならば、いかなる言葉の真偽も、そのひと自身の目的と解釈によって決まる。

だからその言葉の、「その人にとっての」真偽を、その人ではない私自身が判断することはできない。

あらゆる言葉は、言葉でしかなく、言葉であるかぎりは、どのように表現することもできる。 また信じるか信じないか(採るか採らないか)も自由である。だから、「なるほど、そういう言葉があるのですか――」というしかなくなる。

ただし――もし質問する人が、独自の悩みや課題を抱えていて、解決へのなんらかの「指針」を求めている人ならば、私は、ブディズムに立って、さらにこう答えることになるだろう。

「あなたが理解すべきは、次の三つです――自分の心に苦しみがあるという事実。苦しみの「原因」。その苦しみを消す「方法」」

ブディズムは、まずはその人の心の苦しみをみる。その原因をみる。その方法を理解する。

さまざまな言葉は、苦しみを癒す「方法」として「役に立つか」否かについてみる。

役に立つならば、心に置いておく。
役に立たないならば、その言葉は、その時点では、その人にとって真実ではない。

ただ、難しいのは、その言葉が役に立つかを見分けること。

世にあふれる言葉も、それを求める人たちも、正しい理解からは遠いところをさまよっている。

だから、その言葉は、ただの妄想・思い込みだったり、利欲に満ちたものだったりするし、その言葉を受け取る側も、その意味を吟味し尽くせないまま、無批判に信じ込んでしまったりする。

仏教の中にも、正しい理解から遠い言葉はたくさんある。

お便りをくれた方がいうには、とある本には、
「もし死後に人間が梵天に生まれ変わる事ができたとしても、それは仏教では”残念賞”です」と書かれているのだそう。

「梵天[界]」なるものがあるという前提で、その本は仏教を語っているらしい。

しかし、正しい理解への方法に徹したゴータマ・ブッダという人が、「梵天」なるものを本当に説いたのか?について、もっともっと冷静に、厳密に検討しなくてはいけない。

とある経典には、天界に生まれ変わる道をたずねたバラモン青年二人に対して、 ブッダが、

「お前たち、お前たちの師、あるいはその七代遡った師の、誰かひとりでも、実際に天界を見たものはいるのか?」と訊ねたくだりがある。もちろん、青年たちはイエスとは答えられない。

ブッダは、「ならば、なぜ見たこともないものをあるかのように語っているのか」と正す。

そして、天界なるものをなお信じている青年たちに、そのこと自体は否定せず、

「天界に至る道とは、かぎりなき慈しみの思いを保つこと」と答える。

“これだけは間違いない”とブッダが考える“天界への”方法――すなわち慈しみ――をのみ、彼らに説くのである(Tevijja Sutta、長部経典)

この経典に見える、ブッダという人のホンモノの智慧(相手の信仰を肯定も否定もせず、本質を説く知力)と、

「梵天[界]」(あるいは六道輪廻)なるものを「お釈迦様の教え」としてテキトーに説いてしまう人の思考とは、まったく質がちがう。

もし何かを真理・真実として他人に語るならば、少なくとも、

①自分自身がそれを見ている・体験している・確かめたことがあること。
②そして、それを確かめる客観的な方法(検証方法)を示せること。

その二つがなければいけない――少なくともその二つを満たせないのなら、それは(個人的見解やひとつの宗教ではありえても)、ブッダの教え(仏教)とはいえない。あえていうなら、テキトー仏教(なんとなく仏教)である。

世の中には、こういうテキトー仏教、というのが溢れている。

そういう仏教を、みな簡単に信じてしまっているし、さまざまな知識・言葉をアタマに詰め込んで、どれが間違っている・正しいという議論・詮索にあけくれ、しかも、自らの苦しみ・満たされなさは解決できないまま――という人がたくさんいる。

大切なのは、自分自身の苦しみに気づくこと。原因を理解すること。方法を理解すること。彼らに必要なのは、正しい思考の順番である。

――こうした発想は、私独自のものではない。ブッダが説いた<四聖諦>から簡単に出てくる。ただし、<四聖諦>をただの知識としてではなく、深く理解したときにはじめて出てくる。

仏教を学ぼうという人がいたら、ただの言葉・知識だけを追いかけて、あれこれと考えて、議論して満足するのではなくて、

物事を正しく理解し、それを使ってモノゴトを考えられるようになる、「智慧」のレベルにまで学びの質を高めないといけない。

正しく学べば、仏典の言葉は、「使える智慧」へと生まれ変わる。たとえば――多くの人が手にしているであろう、中村元氏の『ブッダのことば』(岩波文庫)を引いてみよう。

838
マーガンディヤがいった、「聖者さま、あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、<内心の安らぎということをお説きになりますが、そのことわりをももろもろの賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

839
師(=ブッダ)は答えた、「マーガンディヤよ、『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『(それらがなくても/それらによらないでも)清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」

840
マーガンディヤがいった、「もしも、『――によっても清らかになることができない』と説き、また『――がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

841
師は答えた、「マーガンディヤよ、あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな思いをさえもいだいていない。――」

ブッダの真意(ブッダの理解と思考法)にまで掘り下げて、この一節を「学ぶ」必要がある。ブッダはこう言っているのである――

あなたは、あらかじめ知っている自身の教義(言葉・思想など)を前提にして考え、またその教義に見合う答えを期待している。

だからこそ、あなたが執着している課題・テーマについて、本当の答えがでない状況に陥ってしまっている。

なぜそういう状態になっているのか――それは、あなたの思考が本来の目的――心の平安・苦からの解放――から離れてしまっているからですよ。

そういう発想・思考が、この一節の根底にある。そこを見るのが「学び」である。

※追記 状況はつねに移り変わり、言葉がもつ意味も、その時々の関わり・状況・受け止め方・文脈次第によっていくらでも変わりうる。だから、もしひとつの言葉にしがみついてしまえば、かならず現実との間にギャップが生まれる。「苦しみから自由(平安)でいる」という当初の目的から離れてしまう。そういうそもそもの目的と自分のココロの状態に距離が出来てしまった状態を、「迷いの生存」と表現している。

人間は、ついつい言葉を追いかけ、言葉を積み重ね、その言葉をかき集めた延長に、もしかしたら幸福が来るのかもしれないと期待しつづける。

しかし、その思考・発想そのものが、もうすでに「執着」によって作られてしまっている。ズレた思考なのである。

元にある執着――手放せないその心・関わり・原因といったもの――からいったん離れて、思考を正しく組み立て直すことだ。そうでないと、

結局、言葉を探し集めることで“思考”は満足できても、心の苦しみは解決できない――そういうことが起きてしまうのである。

最も見るべきなのは、「内心の平安」。
苦しみから解放されるという、その人にとっての人生の目的。

その目的から、すべての思考をスタートしよう。

そして、自らが出会う言葉・思想・信仰・教えといったものが、
自分の目的に照らして、本当に合理的で、効果のある「方法」たりうるのか、よくよく吟味しよう。

世間にあふれる仏教、あるいはそれ以外の言葉の多くは、 本来の目的から遠いところをさまよっている。

本当に、自分自身の心の中の苦しみが見えている人というのは少ないし、その苦しみの原因、それを乗り越える方法を理解している人も少ない。

多くの人が、仏教・宗教その他いろいろな「方法」に飛びついているけれど、

その方法を用いて結局期待しているのは、自身の承認(されたい)欲求の満足、誰かへの執着(理解されたい・愛されたい)、世間的な成功をかなえることだったりする。

だが、そういう期待・執着こそが、「この苦しい・満たされない自分」を繰り返している真の原因であるかもしれないのだ。そこに目を向けさせてくれるのが、本当の言葉である。

経典の言葉をもうひとつ引いてみよう――

「ならば、わたしは何を確かなものとして説くか。

これは苦しみである、これは苦しみの起こる原因である、これは苦しみの消滅である、これは苦しみの消滅に導く道(方法)である、ということを説く。

それは何ゆえであるか――自己の目的にかない、浄らかな修行の基礎となり、世俗にわずらわされず、煩悩から自由になり、心の平安、すぐれた智慧、正しい理解に役立つからである。」中部経典

この発想である。これが、

宗教としての仏教(≒確かめようのないことを「お釈迦様の教え」として説いてしまうテキトー仏教)ではない、

正しい理解と思考を導くブディズムBuddhismである。

まずは心を正しく理解しよう。
苦しみの原因は何なのかを正しく理解しよう。
そして、苦しみを乗り越える方法を、心がけていこう。

そのとき、人生は、ひとつのテーマに貫かれた一本の道になる。

そこからが、真の人生のスタートなのである。