仏教講座スケジュール

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お盆前の教室から

お盆入り前の8月9日(土)は、
午前は東武、午後は神楽坂で2つ教室がありました。

全部で8時間近く――充実した一日でした。

●シリーズ日本仏教講座では、法然、親鸞に代表される“浄土信仰”――“あの世”論――に突入。

といっても、この場所は、出来あいの思想をただ紹介するだけでなく、きわめてリアルな問題意識に立っているので、

最初に「まんが日本昔話」の映像(『和尚さんの地獄めぐり』)をみんなで見て(笑)、

五木寛之氏や、納棺士の青木新門氏(映画『おくりびと』のモデルになった方)、田口ランディ氏らの文章をとりあげて、現代人にとっての死を考え、

そこからさかのぼって平安末期の人々の「死後のイメージ」(おどろおどろしい地獄絵図――源信の『往生要集』)を紹介したのちに、

「死後の世界への恐怖」から人々を解き放った、日本仏教の革命家・法然の生い立ちに入る、という、

なかなか壮大な?構成になっています(法然の生い立ち編は次回8月23日)。

さらに、最近、理研研究員のS氏が自ら命を絶ったという、かなしい出来事をふまえて、

「原始仏教の世界では、自殺・自死というものをどう扱っているか?」をテーマに、とある仏典のエピソードを紹介。

けっこうディープな内容になりました。(そうそう、草薙龍瞬が少年だった頃に体験した、怖い話のおまけつき。)

●ひとは、死というものに、ついついとらわれてしまいがち。そのくせ、人の死にも自分の死にも、けっこう無頓着だったりする奇妙なところがある。

つまり、他人の死については、動揺する、憤る、悲しむ一方で、

今回の理研のSさんの例のように、騒ぐだけ騒いで、その実、そういう世の中のありよう(報道の仕方とか、そういう話題に飛びつく一般の人たちとか)こそが ひとを死に追いやっているかもしれないという自己反省はいっさいなかったりする。他人の死は、あくまで他人事の域を出ていない。そういう印象がある。

他方、自分自身の死についても、死するときに心に何を思うのか、あるいは死することを前提として、では今をどう生きて準備すればよいのか、という発想はあまりなく、ただ世間の話題・動き、日々の雑事に追い立てられて、なんとなく年を重ねているだけのように見えることもある。

ひとは、死についての態度が実に曖昧だ。盲点のように、なぜかそこだけ輪郭がぼやけてしまっている。

ちなみに法然が出現する前の日本人にとって、死は「地獄に落ちる」ことを意味していた。死することは恐怖であり、難題だった。

だが、法然が「念仏だけで救われる(浄土にゆける)」という新しい思想を打ち立てて以来、人々にとって救いはだんだん簡単になっていった。

そして今日では、地獄なるものはほとんど説得力を持たなくなり、死はますます軽くなった。

ひとは、「財産の生前整理」は熱心に考える。「お墓の維持・管理はどうしようか」と考える。その思考はじつに即物的(モノ本位)である。

昔の人のように「死んだらどこに行くのか」と真面目に考える人は少なくなった印象だし、「いずれ死すべきこの命を、いかなる役割のもとに、どのような動機のもとに生きるのか、使うのか」といった厳密な問いを考えている人は皆無のようにみえる。

最近は、著名な仏教学者さんが、「お墓や葬儀・戒名は、みな坊主がビジネスとして作ったものだから、不要である」なんて語っていたりする。

語るのは自由だ……しかし、こういう人たち(学者や、物書き僧侶さん、仏教系作家さん)たちというのは、「知識としての仏教」しか知らないように見える。個人的な「意見」しか語っていないように思える。

個人の意見だけ語ることと、「仏教のありよう」に一定の見解を語ることとは、厳密にはまったく違う行いだ。前者は自分を向いているが、後者は自分以外の命すべてを向いているはずだからである。

彼らは、個人の意見を語ることだけで満足してしまって、「では仏教とはいかにあるべきか」という具体的にして普遍的な思想・行いのレベルでは言葉を発していない(発想がない)ように見える。たとえば、

今の世の中、現実の人生の中で思い悩み、苦しみあがいている人たちにとって、どのような思想がふさわしいのか。

愛する人を不意に亡くしてしまったときに、どのようにして気持ちに整理をつけ、またこれからの日々をどんな思いで生きていけばいいのか。

求め求めて苦しむ心いっこうに止まず、これからどう生きればいいのか、またこのやり場のない満たされなさ、憤り、怒り、欲望をどう扱えばいいのか。


そういう切実な問いへの答えを探しあぐねている数多くの人たちに、

一体どのような理解のしかた、行い、形ならば、その人たちにとって最善の答えになるのか、というテーマについては、考えていないように映る。

仏教を語る声は、巷にあふれている。

しかし、仏教を語る人たちが語らねばならないのは、「自分はこう考えます」といった人生観や所信の表明では本当はなく、

むしろ、自分の意見という枠を超えたところで、もっと現実の世界をよく見て、感じて、人々にとって救いとなるような、新しい希望となるような、ものの見方や、具体的な行いについての提案のはずだ。そして、それを実際に自分自身がやってみるところまで歩を進めるべきである。

実際に、その言葉が、別の誰かにとっての答えとなりうるのか。実際にそれで救われたり、希望になりうるのか。そこまで実践的に考えることが必要のはずである。

ここまで視野を広げれば、仏教を語り、考え、生きる、ということは、じつは容易ならざることであると、察することができるのではないか。

●そういう厳密な、いわば、“(自分・ひとさまの)命のかかった”問題意識で、仏教を学び、語らうのが、この場所――そうありたいと思う。とある人が「毎回、 真剣勝負ですね」と感想を語っていた。それはそうである。私にとって仏教とは、人生そのものであり、また別の命に役立ちうる可能性だから、つまりは“命がかかっている” ものだからである。

法然を例にとれば、彼は、自身の死に方(往生のしかた)を、それまでとはまったく新しい形で見いだした。

それまでの日本仏教(天台、真言、奈良の南都仏教)が説く、高度な修行が必要とされる道ではなく、

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏ひとつで救われる、と信じた。

そして、それを自身の生き方とするにとどまらず、現実の苦難の中でもがき苦しみ、また悲嘆にくれざるをえない人たちにとっての「救いの方法」として、説き伝え、実際に多くの人々を救った。

人々は、法然の言うことを信じた。仏教をただ「語る」のではなく、仏教そのものを「生きる」身の上だからこそ、その言葉を信じたのであろう。

こういう仏教のあり方――「死」というものをとことん、自分のためだけではなく、死を前にうろたえ、あるいは死に向き合う心の態度が固まっていない多くのひとたちのために、考えつめる仏教。「死への向き合い方」を伝える仏教。ただの意見・言葉ではなく、人の心に確実に影響を与え、苦しみから救いへと、その心を変えうる力をもつ仏教。

そういう仏教こそが、本来の仏教であろうと思う。そういう仏教は、かつての時代にはあったし、今の時代にもあっていいはずである。

私自身、もっともっと仏教を学んで、実際の行い・カタチとして表していきたい。

――今回も楽しく充実したひとときとなりました。毎回、新しい話題が出てくるので、私自身とても勉強になるし、楽しいです。みなさんにも楽しんでいただけたら幸いです。

お盆休みに入られる人もいるでしょう。

よき日々をお過ごしください。