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この世界に「信頼」をもとう

8月23日
今日は日本仏教講座。久しぶりに復活した人もいて、お盆明けにふさわしい賑やかしい教室になりました。

今回は、法然の話。前回からの浄土信仰のつづきでした。

命閉じること、つまり死を、どのようなものとして受け止めるか。死をどのような現象として理解するのか。

死という未知の出来事について、どのような「理解」をこの心に置くかというのは、じつはたいへん大事。

もし誰かに先立たれたときに、それをどのような出来事として受け止めればよいのか。そのとき自分自身の答えを持っていなかったら、心は簡単に動揺し、また喪失に苦しむことになるだろう。

自分についても同じこと。もし「その先」についてひとつの理解を持っていなかったら、ひとは皆、これまで生きてきたのと同じ心と発想をもって、これから先も「ただ生きていく」だけになる。だけど、ゴールの見えない道のりというのは、どこか物足りない――というか、自分がどこに向かって進んでいるのか、最終ゴールが見えていないわけだから、「ただなんとなく歳を重ねていく」だけになってしまうことだろう。ひとによっては不安や怖れに駆られるかもしれない。

人生には必ず終わりがくるのだから――。ならば、

人生の先にあるもの、そしてその先の先にもつづくであろう、この世界――私たちが生きるこの世界――がどういう世界なのかを、きっちりと理解しておくことは、確かで大きな意味を持つだろうと思う。

今回やった浄土信仰の話は、いわば、死という人生の終わりに、ひとつの「理解」を見出すことを講義の目的としていた。

この世界とはどういう世界なのか――それは、つながりに基づいた、命を生み育む、豊饒なる力に満ち満ちた、恵みの世界――言葉にするなら、「慈愛に満ちた世界」といってよいだろうと思う。

ひとは、死んだのちに、この人生の苦を持っていくことなど、できようはずがない。苦の一つたりとも、死の先には持ってはいけない。

どの苦しみも、生きている間だけのものだ。

とするならば、死とは、生きてある間の苦を終わらせてくれるもの。苦から解き放ってくれる、ひとつの出来事だと理解してよいであろうと思う。

ひとは、命の完結をもって、人生にあったすべての苦から解放される。

その先にあるものは、つまりは、「安らぎ」なのである。

その安らぎの世界とは、私たち人間が生まれる前から、存在し続けており、また私たちが死したのちにも、永遠に続いていくだろう世界である。

ひとはなぜ苦しむのか。悲しむのか。それは、まさに心が作り出した迷妄・錯覚だとはいえまいか。

命の先には安らぎがあり、ひとはみな安らぎに向かって日々歩いている。怖れることなどない。遠ざけようとすることもない。

独りきりの人生であっても、その先には安らぎが待っていてくれているのであり、

もし自分の人生が安らぎに還ることを、知っていてくれる、受け止めてくれる、心やさしき縁者がいてくれれば、それはなお一層のすばらしい僥倖であるといえるだろう。

私は個人的に、ひとが命を閉じるときに、
「あなたが生きてきたことを私は受け止める、これからもあなたという命をちゃんと胸にとどめていきてゆく、だから安心してお還りなさい」――と伝えられるような仏者でありたいと思うし、そのような活動をつくっていきたいとも考えている。

大切なのは、この生の先に安らぎを見ることである。先立ってゆく命もまた、安らぎの世界へと還る。自分の命もまた、安らぎの世界へと還る。

この世界を、どのようなものとして「信頼」するか――それこそが私たちが考えるべき問いではないか。

悪意や疑念をもってみれば、殺伐たる世界にみえるかもしれない。悲しみをもってみれば、悲しみに満ちた世界にみえるかもしれない。

だが、この世界は本当は、命を生み、育て、次につないでゆく力に満ち満ちていている。

ひとはみなこの世界から生まれて、やがては生きてある間の苦しみのいっさいから解放されて、また安らぎの世界へと帰っていく。

この世界は「生きていきなさい」「生きていいのですよ」というメッセージに満ちた、無限のつながりと慈愛の世界である、と「理解」し「信頼」するのである。

これは、信じてよい理解であろうと思う。なぜなら、もしこの世界が、無限のつながりと慈愛とに満ちていない世界であるならば、宇宙開闢以来ここまで命の連鎖は続いてはいない。私たちは、この日ここまで生き永らえてはいないであろう。

すべての生命を育む力に満ちているからこそ、私たち生命の連鎖は、ここまで、果てしなく続いてきているのである。

だから、この世界を、もっともっと私たちは「信頼」していい。世界とはそういうものである、と「理解」すればよいのである。

浄土信仰では、世界に満ちた慈愛の力(はたらき)を、「阿弥陀仏」という無量の光として言い表した。
(※「阿弥陀仏」という言葉の原義には、「人格」はなかった。もともと阿弥陀仏とは、抽象的な、無限の寿命と光とを意味した。「はたらき(作用)」を象徴する言葉だった。)

阿弥陀仏は、時代を経るにつれて、だんだん人格化していって、人間の姿をした神様的な存在として思い描かれるようになっていった。だがもともとは、この世界に満ち満ちたひとつのはたらき・力を意味したと言っていい。そしてそのはたらき・力は、現代においてなお、この宇宙に存在する科学的真理のひとつでもある。

ひとの心に訴えかける「はたらき」としてとらえたとき、阿弥陀仏という言葉と、「慈愛に満ちた世界」という言葉とは、みごとに重なってくる。そのはたらきは、本質において共通している。

かつて新宿の街で、40すぎの若い女性が、伴侶を事故で亡くしてパニックになって私を訪れてきたとき、私が伝えたのは、原始仏教が説く「執著を手放せ」ではなかった。

「この世界は慈愛にあふれていて、ご伴侶はその世界に帰っていったのだから、安心していいのですよ」

という言葉だった。そのときの私の心には、浄土信仰の教えがあった。女性は安堵の笑顔になって帰っていかれた。

「極楽浄土」ではなく、「人生の苦から解き放たれた安らぎの世界」として伝えたのである。ひとが、その命に抱える苦から解放される・救われるという点においては、どちらの言葉をとっても同じである。そもそも仏教というのは、さまざまな表現・言葉の背後に横たわる、最も深く、共通する真実・真理を伝えるものだ。私は、原始仏教と浄土信仰がそれぞれにもつ思想の本質部分に心を下ろして、そこから出てきた言葉を伝えたのである。

この教室のように仏教を幅広く学ぶことの意義は、たとえば時代によって変わる仏教的な「言葉」の底を流れる、本当の意味の部分――ひとの心の苦をとりのぞく「はたらき」の部分――が徐々に見えてくることにある。

これはかなり難しい思索と洞察を必要とすることはたしかだ(それが自分独自のオリジナルの見解になってしまってはいけないのだから。あくまで仏教に根ざした「理解」でなければいけない。それが仏教に依って立つ者の流儀である)。

しかし、そもそも仏教思想というのは、ひとの苦しみ・悲しみをいやすことを目的とし、
その方法としては、けして非合理な物語によることなく、人間にとって合理的な、受け入れやすく、また現実にたしかな効果を持つ方法でなければならない。

そういう前提・作法に立ったときには、今回のような理解や表現もまた、仏教思想の流れからきちんと出てくるのである。

私たちは、死というものに、そして生まれまた帰っていくこの世界そのものに、ひとつの「信頼」を持つべきなのだ、という話。

世界はそもそも慈愛に満ちている。

命が還ってゆくのは、安らぎである。

そういう「信頼」を持てるかどうか。持っていい。これは人生観の問題である。宗教・信仰を信じることとは違う。世界観の問題である。

私は、そういう「信頼」にもとづいて、誰かの命終わるときを受けとめたいと願っているし、また自身の命終わるときについても、この信頼をちゃんと保って迎えようと思っている。

自分の人生に、その先に、この世界に、「信頼」をもつこと。

それが今回の結論でした。

※8月31日は夜の座禅会(午後6時~)です。