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仏教的「夢分析」の方法

こんにちは、草薙龍瞬です。
今日、雨の中をきてくれたひとにはどうもありがとう。おつかれさまでした。

今回は、明恵という鎌倉時代の高僧をモチーフに、「心の闇」という領域をあつかってみました。

夢の中で「親を殺した(親が死んだ夢をみた)」ことがあるひとというのは、珍しくないかもしれない。

どんな人間の心にも、とても小さな不満や感情が、ひょんな弾みで生まれて来るもの。それが眠りの世界で、映像として実を結ぶことがある。

映像はリアルなものだから、それ自体がなにか真実であるかのように思ったり、「お告げ」としてとらえたりしがち。「夢の真意を解釈する」というのもよくやる。「夢占い」みたいなことも。

ほんとに何かを予期したり、誰かが現われたりと、説明のつかない夢というのもたしかにあるみたいなので、一概にはいえないけれど、

親をはじめとする身近な人について、きれいならざる夢を見てしまった時というのは、
たいてい、実生活の中で怒りやすれ違いがあったり、「かんちがい」(思い込み)があったりするもの。

その元にあるのは、微小な「反応」であることがけっこうある。
だからそれを、あんまり真に受けないほうがよいと思う。

「親が包丁もって襲ってくる夢をみた」ひとなら、昔なにかの拍子でこっぴどく叱られたとか、理由があったかなかったか、とにかく親がとても怖いひとに見えた、というような素朴な体験が記憶として残っていたのかもしれない。

子どもの場合、そういう夢が、かなり影響力を持ってしまうのがこわい。

私自身も、幼い頃は、親が先に死んでしまう夢とか、けっこう見ていた気がする。そういう夢をみるたんびに、心は、親から離れること、自立するという発想になっていった気がする。その頃の夢は、真実ではなくて、自分の一方的な思い込みだった。

心理学の世界では、「夢分析」みたいなことをやる。西洋の昔の神話とか、性的な願望とか、かなりいろんな物語・理屈で説明しようとする傾向がある。

ただ、これは仏教心理学の意外な活かし方だと自分でも発見した思いだけれど、夢というのは別に「分析」するほどの意味がないことのほうが多いように思う。

そう私が思うのは、瞑想の修行中に、自分のとんでもなく大昔の記憶のカケラ(それは実際に起きた出来事と、それについて自分が思った・解釈したことの2つでできている)と、その記憶が作り出したとある晩の「夢」を両方、数珠つなぎに「思い出した」体験があるから。

「あ、子どものころは夢をみて、間に受けていたけれど、なんということはない、自分の解釈が作り出した映像にすぎなかったんだ」と、わかってしまった体験による。

ちっちゃな反応と、それが作り出す映像――夢といっても、とどのつまりは「妄想」の一形態にすぎない。あまり真に受けない方がいいこともある。

だから、「親においかけられた夢を見た」という子供がいたら、その親(お母さん・お父さん)は、
「そんなこと言われたら悲しいよ。夢ってデタラメ見ちゃうことってけっこうあるんだよ」「妄想しちゃったんだね(笑)」と軽く流してしまうのが一番。「夢は夢」と割り切ってしまう。「夢は妄想」と理解するようにする。

ただ、その妄想が生まれたきっかけ、理由、つまりは「最初の反応」というのは、もしかしたらあるかもしれない。それが、怒りだったり、かん違い(解釈・判断)だったりすることがある。その部分は「気づく」(理解する)ように心がけたい。それは勘違いだったとどこかではっきり気づいてもらう時を待つこと。そして一貫した愛情を伝えること――。

きっと、あの佐世保の女子高生は、親から無数の理不尽な思いをさせられていたものと推測する。もしかしたら、「父親を実際に殴打した」出来事の前に、何度も何度も、親を夢の中で殺していたのかもしれない。

仮定の話で恐縮だけど、もし心の真相を正しく理解する「お坊さん」が、彼女と話をしたら、真っ先に気づくのは、父親への感情であっただろう。「ずいぶん偏った父親だなぁ」というのは、すぐにわかるもの。

ちなみに、私は、小中学生と話をすることもあるけれど、ほんとおどろくくらいに、親への思いが顔や言葉にそのまま出てる。

「キミはおかあちゃんのこと、うるさいと思ったことない?(そう見えるけど?)」なんて聞いてみると、(そうなんだよ)というように苦笑してみせる子がいる。

佐世保の女子高生だったら、お坊さんは「キミは、お父さんを殺したい(死んでほしい)と思ったことない?」「そういう夢とか見たことない?」とざっくばらんに聞くだろう。

その程度の夢・妄想は、誰でもみて不思議はない。「そうか、そりゃかなり不満が溜まっとるんやな……どんなところが不満なの?」というところを聞いてみることになるかもしれない。

その子が抱えている狂気、心の闇を作り出している、原始の反応を見る。これも仏教の活かし方。

「心の闇」にもまた、「理解」という「光」が届く可能性がある。

仏教を知らないカウンセラーとか、犯罪学者とか心理学者のひとなどが語る「コメント」というのは、どこか観念的で一面的な印象がある。

「命の尊さを教えてきたはずなのに――」なんて言う大人がいるけど、真相を言えば、そういうアプローチでは「心の闇」には届かないこともある。

あくまで、心の闇に届く可能性がある光とは、「理解」ではないか。夢についても同じ。「ありのままを理解する」(受け入れる)。

その理解として、仏教心理学を活かしてみるのはどうだろう。そうすれば、新しい理解の仕方が出て来るような気がする。

人間の心は、どんなにおっかない、危険な妄想でも思い浮かべてしまうもの。子供だって同じ。むしろ大人よりその危険は高いかもしれない。

でも、それはありのままの姿。それは出発点。否定すべきことじゃない。

そこをひっくるめて受容してしまって、どんな可能性をも理解したうえで、

「それは忘れちゃっていい妄想だよ」とか、
「きっとこういう思いが奥にあるんじゃないのかな」と、さらに「理解」を進めていく。

夢の中にあらわれるたいていの「思い」は、理解しちゃうことで霧散していく。あるいは、現実の行動には影響力を持たなくなる。そういうものと知っておきたい。

今日の学びは、夢についても仏教的な理解は通用するということと、

どんなに汚れた、醜い、危険な心の状態であっても、それとは別に清浄な、きれいな、すみきった心を持つこと、そこに還ることは可能だということ。

「さとり」(ここでは清浄な心の意)は、遠いようで、その実かなり近いもので、どんな心の状態であっても、たどりつける可能性はあるという話でした。

次回の日本仏教講座は、11月22日、29日です。親鸞、道元、日蓮に入ります(順番は不定)。
11月4日(あるいは5日)、いよいよ『独学でも東大に行けた超合理的勉強法』全国発売です。