仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

インド編2 不思議な孤独の先

10月15日
●午前は、ビハール(寺院)建設予定地の下見。

日本の人にはあまりイメージがわかないかもしれない、乾いた藁色の広大な草原。

この敷地を寄贈してくれるという男たちに再会。

「バンテジーがいないとこの計画は始まりません。You are leader now.」

どんな寺院にしたいかを彼らに聞いて確かめる。私の方から最初に言ったのは、この寺院を社会運動の前線基地にしたいということ。24時間フル稼働できる場所。活動家たちが寝泊まりできる場所。

外国人を招いてメディテーション・プログラムもやりたいと彼ら。ゲストルームも用意する。

集会用&瞑想用のホール。作業所。パソコンを設置したオフィスルーム――。

ラケシュは「珍しい形の寺院にしたい。そうすると人が集まるから」という。彼はタイ様式の寺院が好きらしい。

この場所は、ウダサ、トンブレ、ヘオティほかいくつかの村のちょうど真ん中にある、絶好の地らしい。

来年、日本人客が来たら、この地で起工式をして、ここからマンセル遺跡地に向かおうと話し合う。

建設費はどうやってまかなうのだろう? 「みんなから集める」とラケシュは言っている。きっとなんとかするのだろう。

世界を作るのは心である。この地にすでに種はまかれた。どのように実るか楽しみである。
ビハール建設予定地。はてどんなお寺になるのやら?

●午後からいくつかの村を回る。現地の活動家が集会をアレンジしている。そこに入ってスピーチなどをする。お坊さんの巡業みたいなもの。

村に入ると仏教徒の小さなビハールの前に人だかりがしている。寺に通されて、そこでみなでお経を読む。

ナモー・タッサ・バガワトー……(無上の悟りを開いた世尊ブッダに帰依いたします)

お経は、日本では哀感ただよう音色で詠むことが多いが、こちらでは力強いほうが好まれる。

そして村人へのメッセージ。お堂にはたくさんの村人が床に座り込んで、こちらを見ている。私の背には、ババサブとブッダの像。漆喰で固めて絵具で色をつけただけの、けして見目のよくない二人の像がある。だがいうなれば、インド史上の二つの奇跡。その二者をただのアイコンではなく、メッセージを発する存在感あ るものにする。それは僧侶の役目なのだろう。

この偉大な二者に共通するものは何か――それは巨大な「カルナー」(悲の心)であろう。

ブッダは、人間がなぜ苦しむのかを、自ら苦しみを引き受けつつ考えた。そして苦の原因をつきとめ、その苦しみから自由なる道を説いた。人々がこれ以上苦しまないようにと、新しい社会(サンガ:僧団のこと)の建設に踏み出した。

ババサブもまた、巨大な悲の心で、人間がこれ以上苦しまないようにと尋常でない努力を重ね、インド憲法を作って、さらに我々を仏教に導いた。

みなさんは、今回の痛ましい事件を知って、強い怒りを感じているかもしれない。その気持ちはよくわかる。

だが怒りで終わってはいけない。怒り以上に強いパワーを持った心がある。それがカルナーである。

今回私がインドに入って最初に聞いたニュースが、あの3人の村人が殺された事件だった。私は今、強いカルナーを感じている。

やってはいけないことは絶対にやってはいけない――そのメッセージを発信し続けなければいけない。

日本では(インドの人々は日本の話が好きなので)、毎年夏の終わりに戦争の惨禍と犠牲者とを追悼する儀式を行う。全国民が、戦争で亡くなった人たちの悲を想い、二度と繰り返さないようにと強く誓う。

3月11日も、一万数千人の犠牲者と、その数を超える帰る場所を失った人たちへの追悼を向ける。

そうやって毎年思いを改めて固め、二度と痛ましい出来事が起きないようにと願う。その結果、原発稼働は止まったし、経済的回復も遂げた。たしかに日本社会全体が変わった。

これから私がこの地に来た時には、必ず追悼の儀を挙げたい。毎年つづける。十年、二十年、五十年――人間として、してはいけないことはやめなければならないという強いメッセージをこのインド社会に送りたい。

行動を起こそう。悲の心で闘いつづけるのだ。そうすれば、いつか必ずインドの人々の心に届くときがくる。

われわれは、大きなダンマファミリー、ダンマチームである。数日後に最初のデモをやる。みなぜひ参加してほしい――。

ラケシュも続く。このラケシュはほんとうにすごい人。これほど聡明で徳のある人に出会えたというのは、不思議というしかない奇跡。

こんな感じでやってます
ある村のお寺の前。左に立つのは青年ラケシュ。木の下の像はアンベドカル博士。
●村から村へ移動する。どの場所にも信仰の篤い人たちが待っている。

ビハールは正直、どれも細工はよくない。日本のようにきれいに床を磨く習慣もなく、ゴミ、ほこりが床には散乱している。中に入るとざりざりと何かを踏んだ感覚がある。その床に額をつけて礼拝して、強い念をこめて経を唱える。最初の寺院ですでに声が枯れてしまった。

一通り回って、信者の家に通されたのが夜の10時半(日本時間午前2時)。各村の有力な活動家や若者たちが集まっていた。

「お食事を布施したいと言ってます」とラケシュ。「いや、お腹すいてないんだけど……」と言ってはみるが、「ちょっとだけでも」と懇願の表情。もちろんわかっ てる。施しを受けることは礼節であり僧侶の決まり。うなずくと、ご婦人がせっせと食事の準備。手を洗って、しばらく待つ。

丸いアルミの盆に運ばれてくる。小麦を練って作ったチャパティと、ところどころ煤のようなものが混じったご飯と、ヨーグルトを混ぜた酸味のする黄色いダールと、小さく丸いナスのような実の入った赤いスープ(こんなに夜遅いのに)。私だけスプーンをもらって食べる。

赤いスープが異様に辛い(初めての村ではメチャ辛が多い)。チャパティは胃にもたれる、ダールは酸っぱみになじめないし……この地ではあんまり「味わう」ことなく食べている気がする。

観察しているとインドの人たちは、右手でご飯とダールを上から押して混ぜて、手ですくって、とてもおいしそうに食べる。手は洗ってない。あの酸味のするダールを味噌汁のようにおいしそうにすする。そして食後の手は、盆の上でコップの水で洗ってちゃちゃっと水を弾き飛ばしておしまい。やっぱり生きている日常が違うんだなあ、と思う。

そして車に乗り込んで、ウダサへと向かう。部屋に戻ったのは午後11時半(日本時間午前 3時)。簡単に顔だけ洗って、マンチャ(つるを四方に渡したインド式の簡易ベッド)に横になる。このベッドは、ハンモックみたいに真ん中が沈んでいるので、寝返りが打ちにくい。姿勢に悪いので、一晩寝るとちょっと腰痛になる。

このマンチャは、ブッダが臨終するときもインドにはあった。疲れて横になっていると、このまま死を迎えるときを想像することがある。ブッダは、あるいは慈悲を実践する修行者たちは、その時をどのような思いで迎えてきたのだろうか。

ナグプールの空港に着くとき、ほこりっぽい乾いた色の大地を見ながら、「この地に一体何があって戻るのか?」と毎回不思議に考える。仏教徒たちがいなければ、あるいはラケシュたちとのつながりがなければ、この地に帰ってくる理由は一つもない。観光でめぐりたくなるような美しい景色や、おいしい食べ物や娯楽があるわけではない。「また来よう」と思えるものは、「ひとつ」を除いて何もない、と言ってしまってよい土地である。

今宵、 暗い砂利道を車で走りながら考えたことがある。

村人の家で食事をしているとき、妙な「孤独」の中に自分がいることを見た。というのは、彼らは現地語で言葉を交わし、出された食事をおいしそうに精力的に食べている。ところが私には、その言葉はわからないし、食事がおいしいとも思わない。この地の食事、水、トイレ、寝場所、 音楽、言葉、その他すべてのことが、ことごとく異質。その中にひとり日本人の出家がいる。

この地に生きることの辛さ、大変さというのは、ほとんどの日本人にはわからないだろうと自然に思う。日本からときおり僧侶方が来るが、みなホテルに泊まって数日経ったら帰っていく。日本の暮らしに慣れてしまうと、この地で長く活動することは難しくなる。

私にとってこの地の活動は、「人間」は楽しい。しかしそれ以外はことごとく大変。

だが、私をとりまくインドの人たちにとっては、この世界がごく当たり前の日常。もっとも住み馴れている環境。生まれてずっとこの地で生きているのだから、違和感などもちろんないであろう。

となると、この世界が日常とはなりえないこの身は、インドの人々のなかでぽっかりと浮かぶ小さな島のように感じられてくる。

と同時に、この地で今私が感じている大変さは、遠く日本に住む人たちには想像つかないことでもある。

この身は、日本人でありながら、日本人にはけして分からない場所に在る。

またインドにいながら、インド人にはけして分からない思いで生きている。

つまりこの身は、誰とも共有できない場所に在る――。

その「孤独」を見たとき、思い出したのが、佐々井秀嶺師だった。

あの人は、この孤独を半世紀近くも知っている。日本人にも、インド人にも、けして理解してもらえぬ凄絶な孤独を。

私の場合は逃げ場がある。いつでも日本に帰れるし、インドに来るのも短期間。日本には親しい人たちも今は大勢いる。

しかし師にはそれがなかった。逃げ場のない孤独を、誰とも分かち合えない孤独を、半世紀も抱えて生きてきた人間である。

今は遠い場所におられる方である。しかし、かの師と私とは、ひとつの心を共有しているように思える。この孤独がわかる者は、世界にけして多くはない――。

師の孤独が、なぜか今は「励まし」になっていることに、今宵気づいたのだった。

師の孤独を思いながら、この地での孤独を生きている自分がいる。

そして師からもうひとつ学んだのが、「闘い方」。もし私が師のもとで過ごさなかったら、今のようにインドの人々に働きかけることなどできなかっただろう。大きなことを学んでいたのだ、と今になって思う。

いつかの夜、深夜の国道で車を止めて、助手席の師と後部席の私とでいろいろと話し込んだ時間があった。師の声は、めずらしく穏やかで静かで優しかった。あのとき師は何を心に思っていたのか。いつか若き出家が私のもとを訪れたときに、わかる気がするのだろうか。

スリランカやミャンマーに先に渡らなくてよかったのだ。最初にインドに入って師に巡り逢ったからこそ、この地での孤独を引き受け、闘い方を人々に伝える役割を果たせる。

●佐々井師がこの地に留まり続けた理由はご本人しか分からないが、私がこの地に戻り続ける理由ははっきりしている。

それは、この地に人々の苦しみがあるからである。

この地に立つとき、人々の苦しみを想う。そのとき尋常でない「熱」が湧いてくる。その熱を発すれば、インドの人々は呼応する。「心でつながる」ことが可能になる。

この地には、この身にしか果たせない役割がある。だからこそ戻ってくる。

●今、この地でひとつの可能性が育まれつつある。新しい組織、新しい場所、新しい運動――その可能性を育てているのは、人々の苦と情熱と、ブッダの教えと、ババサブの意志とである。この命が感じ、伝える「悲の心」もまた原動力のはずである。

「悲の心」、つまり人々の悲しみを感じとる心をつきつめると、どこにつながるか。

それは「喜」である。悲をつきつめればじつは喜に変わる。(※これは言語化が難しい)

これは最も奥深い真理の一つだ。二つの真理(≒心の本来の性質)は、究極のところひとつの真理になっている。

この地での過酷な日々の最果てには、きっと「喜」が待っている。

そこに近づくために、今ここにある「悲」をただ感じて生きる熱とするだけでいい。

悲をエネルギーとして生きていく。

こうした生き方もまた、「仏道」と呼ばれる道の一つなのだろう。

ウダサ村を最初に訪れた夜に泊まった村外れの廃屋。中にブッダとアンベドカルの壊れた塑像が祀ってある。どれだけ孤独を引き受けられるか試すつもりで泊まってみた。平気だった(笑)。