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座禅・ヴィパッサナーQ&A 「ながら」はやってよいですか?

いよいよ師走入り。
12月の興道の里は、日本仏教編の年納め(13日)と、クリスマス会(20日、23日)、さらには仏教2014年ベストセラーに見る名言・珍言ベストテン(27日神楽坂)で大団円。座禅会も2回(14日、28日)あります。お時間あったらいらしてくださいね。
こんな質問をいただきました。
(なお私は自分のほうから言葉を発することをためらう習慣(これは戒律にあるのです。求められていないことを語るな、という)があります。だからこういう 質問を受けることは言葉を発するきっかけになるので大歓迎です。特にこの方のように、ただの妄想ではなく「実践のためのヒント」を求めての質問は、よろこんでお答えします。)
Q 座禅を実践する中で、疑問に思うことがあるので、お手数ですが教えて頂けたら嬉しいです。それは「ながら動作」の弊害についてです。
 心にとって良くない事は、妄想に囚われてしまうことだと思います。そして、それを改善するためには、呼吸なり、自分の動作や感覚に集中して行く事だと思います。
 そういった、瞑想を実践していく中で、「ながら動作」をしてしまうことは、どの程度、マイナスになる行為なのでしょうか?
 具体的には、テレビを見ながら食事をしたり、音楽を聴きながら読書をするといった行為についてなのですが、上記の2つの動作をしているときに、余計な考え事をしなければ、最悪心は疲労したりはしないと思うのですが。
「ながら動作」をすることは、普段やっている瞑想の効果を消してしまう位にマイナスな行為なのか? または、可もなく不可もなくといったレベルの行為なのでしょうか?
(もちろん、日々のなるべく多くの時間を、一つの事に集中する事を続けていった方が良いのでしょうが、先日伺った、飲酒した後の座禅同様「ながら動作」の悪影響についても教えて頂けると嬉しく思います)


A 「ながら動作」を仏教心理学で定義すれば、「反応しながら別の反応をすること」といえるでしょう。それがよいことか悪いことか。正しいことか間違っていることか。ブッダの思考法にてらせば「目的による」ということになりそうです。

 もし目的が「ただそのときどきの快楽を味わう」という、ほとんどの人が毎日「実践」していることにあるとすれば、「ながら」はその本人にとっての「快楽」を手に入れる行為だから、目的に照らして正しく、よき行いということになるのかもしれません。

 たとえば「テレビを見ながら食事をする」ことは、ときにはテレビをみてときには食べ物の味を楽しんでという状態だから、心にとっては「そのときどきの快楽 を味わう」という目的を達成できています。だから問題ないということになるでしょう。「音楽を聴きながら読書する」という作業も同じです。心にとっては快 楽の連続がある。他の刺激を求めなくても、心は反応し続けられるし(反応すること自体がひとつの快楽)、快楽もあるということでとても居心地がいい状態で す。ぬるま湯につかって熱燗を一杯、みたいな状態なのかもしれません。

 その一方で「弊害」はないのか。あなたが考える「弊害」とは、 「妄想に囚われてしまうこと」「心が疲労してしまうこと」そして「普段やっている瞑想の効果を消してしまうこと」のようです。たしかにどれも弊害ではあり ます。もっともその「弊害」については、テレビを観ながら食事、音楽を聴きながら読書、というレベルであればさほどないのではないか?とあなたは感じておられるようです。

 仏教では「弊害」というのは「目的に照らして役に立たないこと」と考えます。役に立つか立たないかは、目的によって決 まるのです。そこで禅瞑想の目的を4つ挙げてみましょう――①心を清浄にする(湧いてしまった雑念や煩悩をリセットする)、②ムダなことに反応しない心をつくる、③気づきの力を上げる、④高い禅定(気づきと集中と継続が一定レベル以上で続く精神状態)をめざすというのものです。これらにてらして、「なが ら」が役に立つかどうかを考えてみましょう。

 確実に「役に立たない」といえるのは、②③④の目的についてです。まず「反応しながら別の反応をする」状態というのは、心をこれまでと同じ「ただ反応する」状態でキープする(つまりは成長させない、能力を上げない)ことを意味しますから、その心の状態ではけして④「高い禅定」にはたどり着けないでしょう。③「気づきの力」も上がりません。ただこれまでと同じ、フツーの精神状態で生きていくというだけです。

 ちなみに、もし「テレビを観ながら食事をする」というのを「気づきの力を上げる」ことに使おうとすればどうすることになるか?(面白い思考実験なので考えてみることにしましょう。)

 ――「今テレビ画面を見ている」と気づく。見える情報・画像について、「感情が湧いた」「想像が湧いた」「喜びが湧いた(楽しいと感じた)」と気づく。 「ボケっとしている」と気づく。「音が聞こえている」と気づく。「色が見えている」と気づく。食べ物に手を伸ばしたと気づく。噛んでいる、味を感じてい る、飲み込んでいる……と気づく(わかりますか? 徹底して「心の反応」だけを観察するということです)。

 これを連続して、絶え間なくやりま す。かなり忙しい作業です。「テレビを楽しむ」ヒマなんかありません(笑)。もっとも人間の心は「気づき」の力が弱いので、テレビを観れば、あっという間 に「反応」の状態に引きずり込まれてしまいます。「気づき」が働いていない、つまりは「ボーッとした状態」でただ眺めて、漠然と妄想したり感情を刺激した り感想(判断の一種)を持ったりという「テキトーな反応状態」に陥ってしまいます。だから「気づきの力を上げる」練習にはなりません。理屈では「テレビを 観ながら」気づきの練習をすることは「可能」ではあるのだけど、実際には「不可能」といってよいでしょう。

 目的②の「ムダなことに反応しない心をつくる」というのも、そのためには必ず「気づきの力」を育てる必要があります。その点で「ながら」というのはけして役に立たないということになります。

  ただ「ながら」が役に立たないといえるのは、あくまで禅瞑想の目的に照らしてです。禅の修行者ではないフツーの生活を送っている人は、これら②③④の目的 を真剣にめざしているわけではないと思います。むしろフツーの生活を送りたい人にとっては、「日常生活で味わうちょっとした心の不満や雑念を解消したい」 「忘れたい」という目的のほうが大事でしょう。とすれば「ながら」もそれなりに効果があるといえます。つまり①の「心を清浄にする」という目的にてらすな らば、「ながら」にはそれなりの効果がある、といってよいように思います。これは「お酒をたしなむ」行為についても同じです。

 残る二つ の質問について。まず「ながら」が「普段の瞑想の効果を消してしまうか」ですが、これはこう考えるとよいと思います――気づきの力が一定レベル以上に達し たことのない人については、「消えてしまうほどの効果」はまだ体験していない。「ながら」によって失われてしまうほどの心の能力はまだ育っていない。だか らあまり気にすることはない。(一方、気づきのレベルが一定以上に達している人には「ながら」はもはや不可能です。このあとすぐ述べます。)

  もしあなたが「禅定」と呼ばれるような高度で特殊な精神状態を体験したいと思うならば、一定期間集中して「一点に心を注ぐ」(もちろん「ながら」はありえ ない)状態に特化する必要があります。この境地に達するには、ひとによっては一週間くらいで可能です。ただ世の多くの人はそれほど時間をとれないのが普通 ですので、そのチャレンジは「定年後」くらいにとっておくのがよいかもしれません。今はとりあえず「気づきの練習」をする時間を定期的に作って、心の能力 を徐々に鍛えていく。将来きたるべき修行のための「準備」をしておく、くらいの気持でよいのかもしれません。

 もう一つの質問である「飲酒の悪影響(飲酒後の座禅の是非)」についてですが、これは完全に「意味がない」とお答えできます。「悪影響」というより「成り立たない」。

 飲酒というのは「気づきの力」を弱体化あるいは破壊してしまう行いです(だからこそ飲酒運転は禁じられている)。お酒を飲んで気づきの力を弱くして(あるいは破壊して)座禅をするということは成り立ちません。もしその行いのおかしさがわからないとしたら、その人はまだ気づきというものの力(パワー)を体験し たことがないのだと思います。むろん「お酒をたしなむ」という習慣はあっていいでしょう。ただ「座禅」とはまったく違う領域にある習慣です。飲酒と座禅と いう「ながら」はありえません。そこははっきりしています。

 飲酒ほどに気づきの力を破壊するとはいえませんが、「音楽を聴きながら読書」というのも、厳密には「成り立たない」行為です。「音楽を楽しむ」ことと「読書によって思考する」というのは、心の使い方としてはまったく異質であって、両立することはありえません。世の多くの人が音楽を聴きながら読書しているのは、端的に「読書していない」のです。たぶん何もアタマに入っていません。正しい理解などありえません。でも多くの人は気づきの力があまりに弱いので、そのことがわからないのです。自分は読んだ気になっている。でも実際には読んでいない。

 このことは、気づきの力(パワー)が一定レベルに達している人ははっきりとわかります。気づきの力が定着している人は、 音楽を聞くときにはきっちり聞くことに意識を向けるようになっています。「なっている」というより、そのレベルの心では、もう「ながら」が不可能なのです。気づきのレベルが高いところに達してしまっているから、聴くときには聴く、読むときには読むという行為しかもうできない。「できない(できていない)」ことがはっきりとわかるくらいに気づきの力・理解力が高くなっているということです。

(もっとも、「心が妄想に飛んでしまわないように、小さな音量で音楽をかけて適度な雑反応を作り出すことで、めのまえの作業に集中する」ということはありうると思います。もちろん「その程度の集中ですむ作業」にかぎられるとは思いますが。)

  以上をまとめると、こう表現できるでしょう――いったん気づきの能力が一定レベルに達した人には、世間の人がやっている「ながら」はできません。そういう人でも「テキトーな反応を交互にする」という意味での「ながら」はできますが、それはテキトーな反応でよい作業に限られます。「読書」という高度な思考が必要な作業については、「ながら」は不可能です。そもそも意味がありません。

 ご質問のあなたについてはこう考えることができます。テキ トーな反応を交互にする「ながら」は、雑念解消や気分転換、作業時間の短縮には役立つこともあるから適当にやってよいということになる。ただ「ながら」が けして役に立たない、意味をもたない高度な「目的」というのもある。その目的に特化する時間については、けして「ながら」はしない(厳密には「できないは ず」)。そのような時間を日常にどれだけ作るか、あるいはいつ始めるか。そこを自分で考える――ということでしょうか。「メリハリをつける」とでもいいますか。
 いかがでしょうか。
 精進してまいりましょう。

(季刊誌『興道の里』12月号に掲載します。)