仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
●仏教講座のスケジュールはこちらをクリック。 
●メール通信、配信中。
①お名前、②都道府県、③近況(本の感想・知ったきっかけ等も可)をひとこと 書いて koudounosato@gmail.com まで。※フリーメール着信拒否の設定になっていないか、ご確認ください。
●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

お地蔵さん、似てますか?(「手放す」までの道のり)

こんにちは、草薙龍瞬です。

先週土曜の神楽坂は、「親鸞」がテーマでした。

親鸞――念仏による救済を説いた浄土真宗の開祖で、1173年生まれ。90歳まで生きた――の思想は、さまざまに語られていますが、一言でいうなら、

「仏さんがあなたを救ってくれることはもうずっと昔に決まってることなのだから、
今さらジタバタして自分で幸せになろう・救われようとあがいたりしないで、
すべてお任せなさい、身心ともに委ねてしまいなさい」
(自然法爾:じねんほうに)

ということかと思います。

何に身心を委ねるか――というところが、おそらく一番、理解するための根底になるポイント。

ゆだねる先はさまざまありうる。「因縁(つながり)」にゆだねる。「アミダブツ」にゆだねる。他の宗教なら、「神さま」にゆだねる。

自分以外のなにか大きな存在にゆだねるから、親鸞はこれを「他力」という。自分の力に頼らない、自分でなんとかしようとはしない。

伝統的には、親鸞の思想は、「自力で自分を救おう」とする一派――瞑想中心のテーラワーダ仏教とか、いろんな修行・苦行によって「さとり」をめざす他の日本仏教の宗派――とは対照的(発想がちがう)だと言われている。

だけど、「ゆだねる」「ラクになる」「手放す」という心境とはどういうものか――を、掘り下げて見つめてみると、ふたつは案外似ているのではないか、と思えてくる。

というのは、たとえば瞑想、座禅――これ、「自分の力でなんとかしよう」と遮二無二頑張っても、じつはほとんど先(心の成長)に進めない。

「心を成長させるぞ」とか「なにかひとつでも特別な体験をするぞ」という思い――親鸞的にいえば「はからい」――があるかぎり、修行はまったく進まない。

ところが、ある瞬間、弾みに、ふとなにかを手放したときに、アレ?これって……とちょっと不思議な、まったく新しい感覚に入ったりする。

なんというか、「自我」「自意識」からちょっとしたはずみで離れたときに、新しい体験をするのである。

これは、子どもが最初に自転車に乗れるようになったり、バック転ができるようになったり、という体験とちょっと似ているかもしれない。それまで知らなかった、想像もできなかった。それがふとしたきっかけで、できてしまえた!という感じ。自分でもびっくりする。

仏教の世界では「執著を手放す」とよくいう。これって、世間でいわれる意味とはちがうだろうけど、瞑想の世界でも実感できる。「手放す」という心の動きがどういうことか、わかったかも!と思えることがある。

その「わかった!」感は、それこそ言葉で説明することはできない。自分で体験してみるしかない。不立文字(ふりゅうもんじ:文字では説明できない)。教外別伝(きょうげべつでん:教えることでは伝えられない真実がある)。

ひとは、みんな「手放したい」と思っている。過去を。かなわぬ願いを。自分の性格を。たまってしまった感情を。あるいは誰かを。

でもなかなか手放せない。ひとはみな、手放したい何かをたくさん抱えていて、それをひっくるめて手放して、ラクになって、ああ心が軽い、もう安心だ、と思いたい。

ただ実際には、手放せるひとと、結局さいごまで手放せないひととが出てくる。そのちがいはどこからくるのだろう?

手放す体験をするルート――道・なりゆき――というのは、いくつか挙げることができる。特殊なところからいえば、信仰。瞑想。親鸞が言う「他力本願」、アミダブツの慈悲にすがって「おまかせ」すること。

そこまで特殊でなくても、ちょっとしたきっかけで手放せることもあるかもしれない。旅。新しいひととの出会い。新しい仕事・環境……。

ひとによっては、「苦しみのどん底」で、ああもう生きていけない……と絶望したときに手放せるということだってあるだろう。

きっかけはさまざま。でも境地は共通だ――

手放す。自由になる。ラクになる。過去を忘れてしまう。自分が何にしがみついていたのかさえ、忘れてしまう。新生する。

そんな瞬間にたどりつくまでの道のりには、「ひとつの共通項」があるように思う。

それは、「手放したい(手放さなきゃ)」という思いが心の底にずっとあることだ。

手放したい。自由になりたい。安心(あんじん)したい。と思っていること。

そういうひとから、ふとしたきっかけで、ほんとにそういう世界に入っていける。(しがみついてる人は、たぶんずっとそのまま行く。)

結局は、あきらめないこと。求めつづけることなんだと思う。

親鸞の場合は、9歳で比叡山に入って、「20年」も激しく修行しつづけて、ようやく「限界」を感じて、「アミダブツにおまかせ」という新しい信仰に入っていった。20年である。

恐縮ながら自分ごとを引かせてもらえば、「自力」頼みの格闘のはてに、ようやく自分そのものを手放そう(手放さないともう生きていけない)と私自身が覚悟を決めるまで、30年以上費やしている。

ほんとの救い、安心(あんじん)、安らぎ、そして自分の人生への「深い納得」が得られるようになるには、やっぱり歳月の積み重ねが必要なのだと思う。

積みに積んで、重ねに重ねて、ようやく見えてくるものというのがある。

私は仏教の道に入ってそろそろ十年だけど、やっぱり今だに新しい発見というか、「いっそう深い真理」にたどり着いた、というか掘り当てたような思いを持つことがある。それは今も続いている。というか、それが「増えてきている」ような気さえする。

なぜ増えているかと言えば、それはやはり仏教を学びつづけているから。日本に帰って来た4年前は、日本仏教のことはほとんど知らなかった。その後学びつづけて、さまざまな日本の仏教者の思想に触れていくうちに、どんどん新しい理解がみえてくる。見えてきている。

発見とか、救い、といったものはそういうものだと思う――今はまだ見えてない。でも続けていけば、いつか見えてくる。そして、その瞬間は、ほんと不意におとずれる。

1年、2年なにかをやったからといって、その本質がみえてくるわけじゃない。

座禅も、仏教も、仕事も、人生そのものも。とにかく生きてみること。つづけていくこと。

降りなければ、きっと「安心(あんじん)」はえられる。

そのとききっと、多くの仏教者たちが語る、「手放す瞬間」「救い」の意味が、ほんとの意味でわかる。

なにかひとつ、求めつづけること。実践しつづけること。それを「生きつづける」こと。
そうすれば、なにかが生まれる。

そのとき、そのひとはちがう人間になれる。

――――――――――――――――――――――――――
お知らせ
★インドツアー2015、ご希望される方には資料をお送りしました。「遠足みたいで楽しくなってきた♪」というお声をいただいています。私も楽しくなってきました^^。
年内にビザ申請まで行ければ十分間に合うので、今からでも参加可能です。まずはメールで連絡ください。

★山形のお友だち(里びとさん)からお写真をいただきました。龍瞬に似ているお地蔵さんだそうです。似てるでしょうか。おすそわけとしてお届けします。

★12月20日、23日は「クリスマスに仏教で『愛』を考える」。27日は「仏教ベストセラーの名言セレクション」。28日の坐禅会でシメです。

よき年の瀬を――

笑っちゃった・・・