仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
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クリスマスの仏教講座&親鸞「あるがまま」

12月20日
いよいよ2014年もあと2週間を切りましたね。かなりの風雪に見舞われている土地もあると聞きます。御無事を祈念しております。

●1月21日から29日までの興道の里初企画のインドツアー、順調に準備進んでいます。1月明けでも間に合うと思いますので、ご希望者はご連絡くださいね。

●今日20日と23日の午後6時からは、2014年総集編もかねての仏教講座です。クリスマスにちなんでちょっと趣向を変えます(ワークショップか映像か)。27日に先駆けて、仏教の言葉セレクションもやる予定です。

●前回のメール通信のあと、「アミダブツ」というものに違うイメージを持っていたが、ちょっと理解のしかたが変わったとおっしゃって下さった方がけっこういました。

日本(大乗)仏教はブッダ本来の教えから離れてしまっている、と感じている人は多いみたい。ですが、

今の日本人が知っている日本仏教というのは、かんちがいした坊さんたちが適当に説いているものでしかありません。これは坊さんのみならず、仏教学者とか仏教作家などが語る内容についても、同じことがいえます。

かんちがいした人たちの言葉を聞いて、わからない、難しい、役に立たない、という印象を持っている。つまり、学んでいるこちら側もかんちがいしているのです。

「勉強」にもスジのよい学び方と、スジの悪い学び方とがありますよね。学び方にセンスがないと、いつまでも勉強はわからないまま。

伸びるか伸びないかは、使う本や、学ぶ先生などによって決まります。
仏教もきっと似たところがあります。

ちなみに日本人は、学ぶセンスというのがあまりないのかもしれません(笑)。学校の勉強。英語。そして仏教――本筋から離れた教科書・参考書や先生にまじめにつきあって、「わからない」「キライ」と言っているような……そんな感じがしませんか。

やり方、変えてみればいいのに――?

「本質」は、テーラワーダであれ大乗であれ、けっこう共通しています。表現、見る角度がちがうだけ。

むしろきちんと共通する部分=本質がみえるように、伝える側は伝え、学ぶ側は学ぶ、という、そういうちょっとした工夫(智慧)が必要なのでしょう。

「共通する部分」がみえてくると、もう一つ不思議な思いがわいてきます――この2500年に語られた仏教の言葉というのは、案外ブッダの教えから一歩も出てない(オシャカサマの手のひらの上?)のだなあと思えてくること。

今日から教室でとりあげる、仏教の名言&珍言に触れても、そうした思いは湧いてくることでしょう。

この12月は、現代日本にあふれる仏教の言葉に触れてみましょう。
すると、日本の仏教がブッダの教えからいかに遠いか、もっと正確には、「仏教の本質からどれだけ離れているか」が見えてくると思います。

と同時に、こうした言葉に私たち現代の日本人は「どう向き合えばいいか」をも考えましょう。
「仏教の学び方」(方法)をあらためて構築しようというのが、今年最後のテーマです。

※親鸞の言葉を引用しておきます(やっぱりちょっと難しいかも。教室ではわかりやすく説明しています):

自然法爾[じねんほうに]の事(現代語訳)

  自然というのは、自はおのずからといい、行者のはからいではないこと。然とはしからしめるということばである。しからしめるというのは、行者のはからいで はなくて、如来の誓願によるのであるから、法爾という。法爾というのは、この如来の誓願であるがゆえにしからしめるのを、法爾と言うのである。法爾とは、 この御ちかいであったがゆえに、まったく行者のはからいをさしはさまずして、この法の徳のゆえにしからしめるというのである。すべてひとが、こちらからはからい【※作為・恣意・はたらきかけ:龍瞬注】を加えないのである。だから、義なきを義とする【※意味を求めないことをよしとする】と知るがよいと仰せられたのである。

 自然というのは、もともとしからしめるということばである。阿弥陀仏の御誓願は、もともと行者のはからいではなくて、南無阿弥陀仏とたのむものを迎えようと、仏のはからいたもうたものであるから、行者としては、よかろうとも、悪かろうとも思わない【※あれこれと詮索しない】のが、自然というものであるぞ、とわたしは聞いている。

  誓願のありようは、最高の仏となろうと誓われたのである。最高の仏というものは、かたちもないものであられる。かたちもあられないから、自然とはいうのである。かたちがあるときには、最高の涅槃とはいわない。かたちもないというありようを示さんがためにと、阿弥陀仏とはもうすのであると、わたしは聞きならっています。

 だから、阿弥陀仏というは、自然のありようを示さんがため【※いわば、すべての生命を育む世界の法則・摂理を表現するためである。この道理を心得たからには、もはや、この自然のことは、あれこれと思いはかるべきではないのである。――増谷文雄訳『親鸞』筑摩書房から

――阿弥陀仏とはいわば象徴・記号であって、人の姿をした像ではない。それが親鸞の理解です。

「問うな、考えるな。人間の分別が及ばぬ世界というのがある。それが“自然(じねん)”である」