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坐禅・ヴィパッサナーQ&A 「ヨコになる瞑想」ってありですか?

質問
 サマネンのおすそ分けありがとうございます。只今、布団の中から失礼しております。と言いますのは、先月末頃、30kgの米袋を担いだ時、腰というか背中にグキッ!と嫌な痛みを感じました。いわゆるぎっくり腰だと思って数日で回復するとタカをくくっていたら、痛みが取れず整形外科でレントゲンを撮りました。結果、脊椎の一つが変形して潰れているとのことでした。ショックでした。でも昨日、少し痛みが和らいだので結跏趺坐で瞑想したのですが翌朝、脈打つ背骨の痛みに見舞われました。結構、この姿勢は背骨に圧力掛かるのでしょうか?
 そこで質問ですが、横になりながらの瞑想は可能でしょうか? 方法や注意点が有りましたら教えて頂きたいと思います。それと脈打つ痛みに対して痛み痛みとラベリングする事は有効でしょうか? ご指導よろしくお願いいたします。
おすそわけ
回答
 まずは同情申し上げます。「30キロの米袋」、担ぐのはもうやめましょう(笑)。あなたも私もトシを重ねているのですから(笑)。

●3つご質問がありますね。ひとつめの「結跏趺坐」(両足の甲を反対側の太ももに載せる、かなりタイトな座り方)ですが、サティ(気づき)を向上させるという禅・ヴィパッサナーの最初の目的にてらせば、必然的な理由はありません。中には「結跏趺坐じゃないと坐禅をやった気がしない」とか「あの苦痛がないと物足りない」という方がおられますが、前者はカタチにとらわれて本質から離れた見解、後者は坐禅に抑制(苦行)的効果を求めてしまっている(私が知るかぎりでは、あまりに落ち着きがない)人の感想のような気がいたします。

 ここは多くの人が勘違いしているところなのではっきり伝えておきたいと思いますが、サティというのは「意識続くかぎり継続してやる」のが基本です(八正道にいう正精進とは「継続」のこと)。だから、ご飯を食べていても、歩いていても、トイレに入っていても、つねに気づき続けることが基本。座っている間だけ努めて済むものではないのです。とにかく継続してサティを入れる(働かせる)ことが基本なのですから、「結跏趺坐して座り込む」という発想に合理的理由はないのです。だから好きに座ってください。というか、座らなくてもいいから、とにかく気づきを保つ訓練を積んでください。「座る」は、長時間気づきを働かせるための方便(まさにカタチ)でしかありません。

 なお座るときのカタチについては、「自分の骨格に聞く」というのが一番だろうと思います。結跏趺坐で難なく座れる人はそれでいい。でも半跏趺坐であっても、あぐらであっても、あるいはイスであってもよいのです。自分にとって一番長時間座れる形で座ること。正念(気づき)、正定(集中)、正精進(継続)の三つを自分が最も満たせる形で座ればよいということになります。

 付言しておくと、多少カラダが痛くなっても「ガマンして動かない」ことは大事です。多くの人は簡単に動きすぎです。苦痛でも、退屈でも、とにかくその不快に耐えてじっとしていること。不思議なのですが、安易な反応を止めると、意識は別の、ふだんの肉体の感覚とは違うところに向かうのです。「禅定」と呼ばれる状態に入るのは、たいてい苦痛に耐えた後です。

●二つ目の質問ですが、横になってのサティ・瞑想は可能です。禅であれば「行住坐臥」と言いますね。あの「臥」が伏している状態、つまり横になっている状態です。ヴィパッサナーでも「横になる瞑想」はあります。結局、気づきを働かせていればどんな姿勢でもよいのです。

 ただこの姿勢では、…… ※続きは季刊誌12月号でお届けします。


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よき年の瀬となりますように――