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質問コーナー続き 悟りの状態と赤ちゃんの状態は同じ?ちがう?

質問2.について

これはね、はっきり言えちゃいます。「さ○○」の状態というのは、心(無常であり、実体がなく、生滅を迅速に繰り返す、それゆえに虚空=無我としか形容しようがないもの:あくまで観念的な説明しかできませんが)に「気づいている」状態を、「一瞬超えた」状態です。

(※カン違いしたがるひとが、世の中にはいっぱいいるので、ここは適当に聞いてください。ここで語れるのは、あくまで言葉でしかない。ほんとは「その先」に、ある世界=境地がある、ということです)

「気づき」(サティ・中立心)というのは、最後の最後まで必要です。それは、たしか。

「赤ちゃん」は、たぶん「気づき」よりも、「反応」の状態だろうと思います。

「気づき」と「反応」って、究極のところは両立しません。

赤ちゃんは、生まれてから「反応」を積み重ねて、それを感覚、感情、思考……と(あまりに大ざっぱな表現です。本当はもっと緻密、複雑ですよね)分化、発展させていきますね。

サティの修行(禅・ヴィパッサナー)というのは、その反応を「無化」して(さかのぼって)いく作業です。ただ、その道程には、最後の最後まで「気づき」(サティ)が残ります。

「気づき」が最後まで続くのが、「さ○○」への修行で、
(※「さ○○」は誤解するひとがあまりに多いので、使いたくないのです(笑))

「気づき」ではなく、「未分化の反応」があるのが、赤ちゃんの状態かもしれません。

ちなみに……「胎児」はいっそう未分化です。カラダを知らない。視覚も、聴覚も、区別ができない。となると「認知」(これは見ている状態、これは音、と識別できる状態)が成り立たない。この状態における「意識」は、赤ちゃんとも(たぶん)別です。

(※これは瞑想修行のディレクション=方向性をちょっとずらすと、体験できます。入りすぎると、「自分」には戻れなくなりますが)。

お寄せいただいたイメージはきっと、「赤ちゃんには自我がない」=自由・ラク、というご印象があるのかもしれませんね。たしかに、自我(=いわば、いろんな反応の仕方・パターン、結生した反応が蓄積された状態)はないから、「本来必要のない苦しみ」はないのではないでしょうか(大人になると、「本来必要のない苦しみ」をたくさん抱えてしまいますね、内側から自発的に?)。

赤ちゃんは、反応の世界で生きてますね。とても自然に反応している状態です。しかもまだ、「自我」がない。イコール、貪りや、尾を引く怒りや、暗い妄想もない(たぶん)。

そういう状態に、サティの修行で近づけるかといえば、近づけると思います。ラクになれます。自由になれます。それはたしかだと思います。

もちろん、現実の世界に帰れば、「赤ちゃん」ではいられず、いろんな反応を寄せ集めた「自我」を生きざるをえないわけですが……。

でも、膨らみすぎて、重たくなった「自我」を、できる範囲で軽くしていくというのは、日々必要な作業だ、と私は思ってます。みんなも、そう思いますよね?

とりあえず、こんな感じでいかがでしょうか。また考えましょう。

お便り・ご質問、お待ちしております。

※追伸 「結生した反応」――わからないひとは、ぜひ次の草薙龍瞬の新刊をごらんください(笑)。←こゆのが「自我」的反応です(笑)。