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親子・家族の「罪悪感」から降りる方法

こんにちは、草薙龍瞬です。
9月25日の特別講座「家族に反応しない練習」は、参加者の方々に好評でした。

「業」(ごう)というものを、前世・来世という漠然とした物語で考えるのではなく、
あくまで「自分自身の人生を支配している・作っている力」として理解する。

そして、その業は一体いつ、どのような原因によって作られてしまったのかを、正しく理解する。

業の力は、「抜ける」ことができる。抜けるための方法がある。そして、人間はこの人生において苦しみのない、自分にとって「善」(よし)と思える生き方・生活を実現できる。

今回紹介した「業の作られ方~業はこうして伝染(うつ)る」という図解、
そして、親から引き継いでしまった「業の正体」を診断するチェックシートは、来年出版予定の本の中で掲載する予定です。

「ブディズム」という、ブッダに始まる正しい理解の仕方・考え方が、いかに現実の苦悩に対して役に立つか――草薙龍瞬の本を通じてみなみなさんが理解して(目覚めて)いっていただければ、それが一番価値がある展開です^^。宗教(という名の妄想)ではない。人間の苦悩を見すえようとしない学者・僧侶方が語る 「お釈迦様」「仏教」(≒その実、観念(知識)による知的自己満足))ではない。

そうではなく、リアルな苦悩を人が抜け出すための合理的な方法――智慧 ――というものを、著者自身の理解と思考と体験と、「ひとはもっと幸せであっていい」という動機をもとに、イチから新しい言葉で組み立ててゆきたい。その 結果としての作品・言葉が、結果的に「目覚めた人・ブッダの言葉」と正確に重なり合う。そして「仏教をお勉強」してきた人たちが、それまでただの活字・知識として触れてきたブッダの言葉が、「ああ、こういう意味(思考法)だったのか!」と、ようやくその真意にめざめられるような――そういうスタイルで、仏教を紹介していきたいと思います。よろしくお願いします(笑)。

さて、「家族・親子」をめぐる悩みの一つに「罪悪感」というのがあります。

生んでもらった恩、育ててもらった恩――これだけのことをしてもらったのに、私は親を遠ざけようとしている、裏切っている、今も苦しめている……「わたしはなんて罪な人間なんだろう」と自分を責めて、息が詰まりそうな思いをしている。

そういう悩み・心痛を聞くことが、よくあります。ここで私は、ひとつの立場・考え方というものを伝えておきたいと思います――

「自分を責めてしまう」気持ちというのは、それだけでは本当は、「根拠がない」と思ってみてください。考えなくていいということ。わざわざそう考えてしまうというのは、ほんとは何の必要も理由もない、自分自身の内発的な(=ひとりでに考えてしまうクセのような)思い込みであるということ。

一方的に自分だけが悪いということは、人間と人間の関わりにおいては、ない。

もちろん、自分が責めを負うべき場合も、相手が責めを追うべき場合もある。

しかし、一番最初に理解しなくてはいけないのは、「この関わりはうまく機能していない」という事実だけだ。この関わりは、今けして順調・潤滑ではない。うまく運ばない。会えば必ず争いになる。一方的に否定される。離れてもその苦痛な感情・不快感・嫌悪感、そして罪悪感が離れない……。

「機能していない」という事実を、正しく理解すること。それだけ。「罪悪感」はいったん忘れること。

そういう関係が、もう何年も、十数年も続いているとしたら、その関係は、そのままの状態では意味がない、といったん正しく理解することが最初ということです。

ブディズムというのは、相手の「動機」というものを、つねに確かめるところから関係を考えます。

相手は、あなたのことを理解しよう、共感しよう、思いやろう、幸せを願おうとしているか。

そして、こちらの人間としての心情――苦痛・悲しみ・分かってもらえないという理不尽な思い――を理解しようという思いがあるか。

人間にとって最大の苦しみは、「分かってもらえない」という事実にあります。

さて、その相手は、こちらの事情や心情を「分かろう」としているのか。

人間関係の「基本」は、こういうところにあります。もし分かろうという発想がなく、一方的に人を断罪し、悪いのはあなたである(私はまったく悪くない)と決めつけて「慢」を押し通し、あるいは自分自身の要求や怒りの感情を一方的にぶつけて、「それが当然」と思っているようなのであれば……その人は「関わること」を求めていないということになります。

あなたが罪悪感を抱いているというその相手は……あなたを理解しよう(したい)と思っているのだろうか。そこを冷静に考えてみるべきではないだろうか。

理解しようと思っていない相手に、理解してもらいたい、仲良くしたい、分かり合いたいと一方的に思うことは、正しくない「執着」です。ひとは、自分自身のやさしさ、相手への愛情(その実は「愛されたい」というこちらの願望)ゆえに、相手の好意を期待する。特に生まれた時から一番近くにいた「親」に対しては、 分かり合えること、思い合えることを切望してしまう。「愛されている」と思えれば、それが人生最高の喜びになる。それくらい「親」というのは、大きな存在。そして「執着」の対象でもある。

人は、自身の願望・執着のフィルターをとおして「関わり」を見る。だから相手がどんなに自己中心的で、理不尽で、傲慢で、残酷で、暴力的で、非情で、わがままで、壊れていたとしても、「相手にはこうあってほしい」「こういう関わりでいてほしい」という 願いをもって、相手を見てしまう。だから、願望と現実との不整合に直面して、あまりに不協和な現実の前で苦しみの声を上げる。

「願望」から入ってはいけない。冷静になって(目を醒まして)、相手の動機、人間としての本質をよくよく見すえることである。その相手は、あなたの幸せを願っている 生き物だろうか。あなたの苦悩を感じ取って、「よき関わりを作っていく努力をしよう・せねば」と考える生き物だろうか。

もしそうでないとすれば、そういう生き物と「関わり続ける」ことを願うことは、本当に正解なのか、をこれからずっと自問していくことだろうと思う。

関わりにおいて、一方だけが悪い、罪を背負うべきということは存在しない。

まして、子と親という関係において、子が罪悪感を抱くというのは、そもそもおかしい(不合理)なのである。

生んだ者が育てるのは当然。そして養父・養母、あるいは親子以外の「他人が」、子どもや誰かを一時期「世話をした」事実があったとしても、それは両者が納得の上で成り立った「一過性の(期間限定の)関係」でしかない。

その関係が終われば、世話した一方には別の人生があり、世話してもらった一方にも別の人生がある。その新しい人生の中に、過去の「世話して・世話された関係」を持ち込むかどうかは、まったく別の新しい問題――関わるかどうかを事の最初に「それぞれが」決めていい――ことである。


真実は、どのような関わりであれ、「一時的」なものだということだ。夫婦であれ、親子であれ、一生涯「続けるべき」関係など存在しない。心が無常である以上、関わりも無常――つねに変わりうるもの、つまりはつねに新しいもの――である。それでいいのである。

そういう、関わりの本然(本来のあり方)に、一方は我欲や要求を、一方は期待や執着を、そして「人として非道では?」「子としてあまりに不義理では?」「この苦悩は自業自得(わたしが悪い)のでは?」といった思いを持ち込んでしまっては、関係はいっそう錯綜して(こじれて)しまう。

関わりは、つねに新しく作り直すものだ。

過去の関わりを、今に持ち込めば、
「恩を仇で返すなんて、ひどい」と、一方は言うかもしれない。
「恩を仇で返すなんて、私はなんてひどい人間」と、一方は思うかもしれない。

しかし、その「恩」を作っている関係そのものが、過去のものである。その一時的関係を、「恩」として意味づけるか、それ以外の思いで意味づけるかは、「今の問い」である。その問いにどう答えるか、どう意味づけるは、あなたが今自由に決めていいこと。「恩を感じなければ」というのは、思い込み・判断でしかない。

そもそも恩も感謝も、自分自身が授かったもの、関わり合った事実というものを「正しく理解」したときに〝自然に〟出てくる思いである。
もし苦しめ合う関係であるならば、そこに「恩」「感謝」という概念を持ち込むことは、残念ながら正しくない。
順番として、「自然な関係」を作れることが先でなければいけない。

その自然な関係を作るためには、「相手の苦しみを誠実に理解しよう」という思いが必要になるのだ。そもそも、よき関係、よき親子・家族というのは、そういうものではないのか。

もしも、あなたが親、家族、その他かつて世話になった相手のことで、「罪悪感」を抱いているとしたら、

「こうしなければ」「感謝しなければ」「恩があるのに何もしてない」という自責の念は、順序のズレた「非合理な思い込みである」と理解しよう(難しいのは私もよく承知しているつもりだが(笑))。いったん「忘れてみる」ことである。

大丈夫。心ある人なら、そんなあなたを責めることはない。

そして、ここから先、関わりを保つべき相手なのか、よき関わりが育つ可能性のある相手なのか――相手の心を冷静に見つめてみることにしよう。

残念だけど、その相手は、自分が罪悪感を持たねばならぬほどの相手ではないのかもしれない。哀しい事実だが、そういう相手も世の中にはいる。その相手が 「親」であることもざらにある。「他人」ではないだけに、いっそう残酷さ・非情さを出してしまえる関係なのかもしれない。

そういう相手との「関わり」は、いったんあきらめることである。「罪悪感」というのは、自分の心に染みついた必要のない習慣・思い込みであると自覚して、忘れる練習をすることである。

もし幸運にも、相手が、相手を思いやり、苦しめ合う関係ではなくて、いたわり合える関係を望んでいる人間だとすれば、そのときには素直に、過去を詫び、これからはこういう関係を育てていきたいのだと伝えることだ。そういう言葉が届く相手となら、関わりを育てていけばいい。

こちらの思い込み、執着(分かり合いたい)をこそ、あきらめること。
罪悪感さえも、一旦は手放すこと。

要の一点は、「よき関わり」を、「双方」が望んでいるかどうかである。

こちらはこちらで一つの立場を決めること。「罪悪感」ではなく、「関わっていきたいか」。

そして相手がどのような関わりを望むかは、相手にゆだねよう。相手が望んでいない、あるいは「理不尽な要求」を押し通そうという人間ならば、関わるのは「尚早」である。いさぎよく離れて、自分の生活の中で幸せを育てていこう。

最後に――ひとは、独りになっても幸せを手に入れることができる。

恐れる必要はない。ひとつの関係に囚われる必要はない。

ただ、自らの幸せと、そばにいる自分自身の快ある家族――愛おしさを感じ、また愛おしみを向けてくれる命――との関わりだけを、愛することである。今を生きるのだ。