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「親」が思い出さなくてはいけないこと(家族論)

10月5日
週末に西日本まで行ってきた。個人的な相談に応えるためである。

最近、「家族」(親子)をめぐる苦しみによく遭遇する。

どの人も、本当によく生き抜いてきた、と思うほどの苦悩を背負って生きてきている。

親子という、生んだ人間と、生まれた人間との関係がある。
それは「事実」でしかないが、しかしその事実が、なぜか凄まじい「重力」を持つことがある。

息苦しい、重たい、辛い、苦痛である、わたしはただ利用され、犠牲になってきたのだ、
愛されたい、分かってもらいたい、分かり合いたい、できれば笑い合える関係でいたい――

そういう思いを抱えて人は生きている。みんながみんな、切なくなるくらいの、たくさんの苦悩、辛さ、空しさ、屈辱、悲しみを抱えている。

ひとはみな、自分を生んでくれた〝大きな人間〟に、庇護を求める。無条件の受容を、寛容を求める。

そうして、自分自身が生きていることの価値を、生きることの意味を、〝大きな存在〟に確かめてもらいたがっている。

その相手が「親」という名の、生まれて以来最も身近な大人であることは、誰にとっても普遍的な事実である。生き物というのは、「親」にこそ、自身が生まれて、存在していることの意味を承認してもらいたい。それは、生まれ落ちて以来の根源的な思いなのかもしれない。仏教には渇愛(かつあい:求めてやまない心)という言葉があるが、親への思慕というのは、この渇愛の最も代表的で、最も強力な例かもしれないと思ったりする。

一方がそれほどに強い思慕を向け続けているにもかかわらず、
ときに「親」なる生き物は、とても冷酷で、強欲で、傲慢で、物わかりの悪い頑迷な生き物であることがある。

「親」は、「いや、それは子供の方だ、親がどれだけ子を想っているか、可愛がって、一生懸命育ててきたか」というかもしれない。もちろん、それも真実の一面であろう。しかし……

親子の関係がうまく機能しないとき、子どもから見る「悩み」と、親から見る「悩み」とは、質が違うような気がする。

子がたとえば「愛してもらいたい」と願うとき、その願いというのは、けっこう単純なものである。

自分のことをきちんと見てほしい、理解してほしい。独り立ちしていく自分を応援してほしい。大人になって親の面倒を見ることを、当たり前と思わないでほしい(少しはこちらの苦労も理解して、ねぎらいや感謝の言葉くらいかけてほしい)というようなものではないか。

親がこれらの子どもの願望を満たすことができれば、つまりきちんと無事を見つめて、相手の感情を(自分の思惑・偏見・一方的な期待を外して)よく理解して、子どもが成長していくさまを快く応援し、子がいかに親のことを気遣い、歓ばせてあげようと願っているかを「理解」できれば、子どもというのは満たされるものではないか。

たとえば、大人になった子供が、親の面倒を見る。仕送りをする。介護をする。

「すまないね」「ありがとうね」

「あんたも家のことたいへんだろうから、無理して来なくていいよ」

「仕送りなんていらないよ、自分のことに使いなさい」

なんて、親が言ってあげるとすれば、子どもにとっては理想の親である。そういう親と子であれば、別になんの苦労もなく、美しい関係が続くかもしれない。

しかし、中には、そういう理解がまったく持てない親というのもいる。

年をとっても、子どもがもう中年になっても、まだ「子どもは自分の思い通りに動いて当たり前」だと心のどこかで思っている。老いた親の介護は当たり前。仕送りなんて当たり前。「もっと送るのが当然だろ。わたしがどれだけ苦労してあんたを育ててやったと思っているんだい」なんて、本気で言ってみせたり、口には出さなくとも、子どもに本音見え見えの愚痴や皮肉をぶつけてみせる人間もいる。

子どもにとって、親というのは、根源的な思慕の対象だから、なんとか親の歓心・満足を買おうと、自分が年をとっても頑張ろうとする。きっとその心は、幼い頃のまんま、「お父さん、お母さんが喜んでくれている」と思いたいのかもしれない。

親にももちろん子供への愛情というのはあるであろう(ときおり、それすら枯渇している淋しすぎる人間もいるにはいるが)。

だが、そうした愛情とは別に、「子どもは自分に尽くして当たり前」と思っている親もまた、かなりいるらしいのである。

そういう親は、子どもに不満を持つ。愚痴・不満をぶつける。自分の人生の失敗を延々と語る(その失敗は「わたしのせいなんだ」だ、と子供が思ってしまうことには想像及ばずに)。自分が老いたら子供に面倒を見てもらおうと思っている。子どもを罵倒することは当然の権利(言いたい放題言っていい)と思っている。 それは、仏教でいえば「貪欲」である。

本来は――関わってくれているだけで奇跡

「本当にありがとう(あなたも大変だろうに)」と心から言わねばならない関係なのである。

ところが、生んだ時点から〝巨大な大人〟でありつづけた親には、そうした子供の苦しみが分からないことがあるらしい。

これは自覚の問題である。「父の日」「母の日」があるのなら、「子どもの日」がもう一つあってもいい。「わが子の日」である。大人になってもまだ関わってくれる、同居してくれる、ケンカしてくれる、なんだかんだいって老いる自分を心配してくれる、ありがたい「わが子」に感謝を伝える日。シニアの人たちは、そういう日が本来必要なのだと知っておくべきだし、それくらい、本当は、「なお子どもでいてくれる」大人たちに感謝しなければいけないはずだと思う。

人間というのは、ほんとうに自分の都合しか見えないものだ。自分の側の期待・思惑・傲慢・貪欲――そういうもので一杯で、本来「関わりそのものが奇跡的な奇跡」であることに気づかない。

その一日をある街ですごして、再び東京に戻るとき、これまで出会ってきたたくさんの「子どもたち」を思い出した。今日出会った人は四〇代後半。かつて出会った人には、十代、二十代、三十代、五十代、六十代、七十代、八十代――といた(ほぼ全世代ではないか)。

「親」を思慕し、親のことで心を痛め、今は亡き親への罪の意識や後悔を抱えて生きている人たちがたくさんいた。今車窓に見えている夜の町灯りの一つ一つにも、「親を想う子どもたち」が生きている。彼・彼女たちは、自分自身の人生を精一杯に生きて、自身の家庭を支え、子を育て、自身の老後の心配をしながら、なお「親」を想いつづける人々である。

世の中のお父さん・お母さんたちに、出家(家なき者)として私は伝えたい。

あなたにとって「子ども」は、一生涯「子ども」に映るのかもしれない。自分の思惑・期待をぶつけて当たり前の相手であると――だがその子供の内面を想像したことはあるだろうか。子どもは、あなたを愛しているから、あなたに理解してもらえない現実に怒りを感じ、それでもあなたを想いつづけて老いていく。ときにどんなに反発して、あやまちを犯して、家を離れて音信不通で、とんでもなく親不孝だと愚痴りたくなるような不肖の子どもだとしても、その子は、やっぱりあなたを「親」としてずっと想い続けるものだ。ひとつの人生にとって「親」は永遠の存在である。

命はみな、闇の中を生きて闇へと消えていく。しかしその闇の中に、最初から最後まで存在し続ける存在がある。それが「親」である。つまりはあなたである。

あなたは、その「奇跡」を想ったことがあるだろうか。ひとつの命が、闇の中で、何十年も独りで生きて、老いて死を迎えるまでなお「親」のことを想い続けて生きている事実を想像したことがあるだろうか。

あなたがもし、大きくなった子どもに対して、不満や愚痴をぶつけていたり、自分の面倒を見ることを当たり前だと思っていたり、心の片隅で「わたしより幸せになっちゃいけないよ」「あんたのせいで私の人生は犠牲になったんだ」なんて思っていたりするとしたら、それはとてつもない罪だと自覚したほうがいい。

子どもは子どもで精一杯生きている。その一杯一杯の人生の中で、今なお満たしきれない親への思慕を抱えている。思慕は生涯消えることはない。愛情も、恨みも、さみしさも、悲しみも、後悔も、……すべての思いは、あなたゆえに在る。その事実を厳粛に、一度でも考えてみることだと思う。

もし、子どもが親との関わりで幸せを感じていないとしたら、はっきり伝えよう――それは親の罪である。子どもは悪くない。子どものせいではない。

親であるあなたが「有罪」か、「無罪」か、仏教的に判断するすべは、次の通りである――

あなたが、子どもに対して、

ありがとう、

あなたが幸せであるように、

がんばって生きなさいよ――

そう思えているとしたら、あなたは無罪である可能性がある。よき親として子の心に残れるかもしれない。

もしこのような思いを忘れていたとしたら、ちょっと罪である(笑)。もう少し、この人生を頑張って生きてみようではないか。

人生にはまだ先がある。だから残りの人生を、少しでもよき親として生きられるように、そういう希望をもって生きていくこと。努力することを目標にすべきだと思う。

親もまた誰かの子ども。子どももまた誰かの親。

みんな、「これから」である。どんな関係にも、希望はあるから――。


※とはいっても、「見切り」をつけねばならない関係もある。苦悩しか生まない関わりの中で、人間は「このオレを無きものとしてくれ」(とある14歳の少年の言葉)と叫ぶか、親に「死んでくれ」「私の中から消えてくれ」と思いをぶつけるかの状態にたどり着くこともある。


そういう場合は、どう考えればよいか。前回のブログはその答えの一つでもあるし、さらにつきつめて考えるのが、来年出版予定の本のテーマでもある。

今一つだけ言えるのは――自分自身が苦しみから解放されること、そのことにのみ人は全力を尽くすべきだということだ。あなたはもっと幸せになっていい。

※家族・親子をめぐるお便り、募集しています。koudounosato@gmail.comまで。