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こんな本を作っていきたい (草薙龍瞬の約束として)

11月15日(日)
さて、これから送り出す本の話――。

本とは、そもそも何なのか。

幼い子供が絵本の世界に胸ときめかせ、想像の翼を広げ、自由自在に内面世界を広げていくように、

大人が読む本もまた、「自分のアタマ」以外の世界に触れて、人生の可能性を広げていくためのきっかけであることだろう。

絵や写真がある。言葉がある。知識や情報、ノウハウがある。

みなそうしたものを目にして、何かを感じて考えて、つまりは自分の心を使って、新しい体験をする。

本を読むとは、心を使うことだから、命の一部を使うことである。

そして、本を読むことで、心は変わる。ときに、人生そのものが変わることだってある。

私も、世界がひっくり返って見えるくらいの鮮烈な体験を、本との出会いによってしたことがある。一度ではない。「世界が輝いて見える」ことが、本当にあった。

それくらい、本とは大事なものなのだ。本とは、その著者の心の現われ。その著者がその心を使って、可能なかぎり最も純粋な――真心に近い――言葉を紡ぎだす。そうして生まれてくるのが本である。

その言葉に触れて、人は心を変え、人生を変える。

ある意味、生の出会い・語らいだけでは体験できない、心と心の交流。そして大きな変化や成長や発見や癒しやときめきがある世界。それが本の世界である。

ならば、本を送り出す側は、どういう思いで作っていけばいいのだろうか。

今の時代・今の世の中を生きる人々の心を、自分なりに感じながら、人々は何を求めているのか、どういう形・言葉・ビジュアルなら、その心に届くのか、誠心誠意考えながら、感じ取りながら、作っていくことになるだろう。

本に現われた言葉は、言葉を紡ぐ「著者」の心に、かぎりなく近い、しかも読み手の心に響く言葉であるべきだろう。

本作りの現場にいる人なら、時代や社会に寄り添い、著者の心に寄り添い、上手に励まし、インスパイアして、新しい言葉や表現が出てくるように同伴する。そういうクリエイティブでサポーティブ(後押しになるよう)な関係が、理想だろう。

ときおり心痛むのは、「著者」と「書かれた言葉」とがあまりに離れてしまっている本を見かけることである。これは、私自身が著者としてというより、一読者として感じ取ることである。どうにも著者本人の言葉とは思えない、だれか他人が適当に書いたような気配がありありと感じられる、そういう不自然な、体裁(うわべ)だけの本が、けっこう見つかったりする。

私はおそらく嗅覚が鋭いので――いや、でも本をよく読んでいる人、本を愛する人であれば、感じていることだろうが――、こういう真実味のない言葉は、すぐに伝わってくる。

「活字」というのは、個性を平坦にする魔力を持っている。お粗末な言葉でも活字にすると立派に見えてくる。内容が薄くても活字にするとちょっと深いことを言っているように感じられる。そういうマジックが、活字にはある。

ただ、さすがの活字でも、ごまかせない部分はある。それはやはり、中身の部分。もっといえば、誠意の部分である。

ノウハウ・知識・情報を伝達する本であれば、中身はニュートラルだ。誰が書いてもさして変化はない。むしろ「伝わる書き方」があっていい。「書き手」にも幅が許される。

あるいは、スポーツ選手のインタビューとか現地取材とか、その人・その現場を見て、感じて、書き手が自身の理解を言葉として書き起こす。そのことで、本人が書くのとは別の「真実」が見えてくる。その真実には価値がある。定評ある『Number』の取材記事なんて、すごい密度である。選手自身が書いているわけではもちろんない。しかし本人の肉声・息づかいまで聞こえてくる。もちろん、取材・執筆した人の名前はちゃんと入ってる。

ひるがえって、仏教・自己啓発の世界は、どうなのだろう。心痛む話題であるが、どれくらい、「著者」とされる語り手の本当の声が、活字という媒体から伝わってくるだろうか。その「著者」は本当に著者なのだろうか。

ただ「上から目線」で、あるいは聞こえがいいだけのパターン化された言葉で、あまり頭を悩まさずに書いてしまって(書いてもらって)、それで何かを著した気になっていないだろうか。

そうやって、人の心に届かないばかりか、自分自身の心が、真心が、痩せていく。そういうリスクを伴う作り方をしてしまってはいないだろうか。

活字であれ、語りであれ、どんな分野においても、大切なのは、自分自身の〝道〟である。自分は何をめざしているのか。何をもって「よし」とするのか。振り返って何が残ったか。何を残したか。そこに「誇り」「満足」が残るか――。

書き手たる者、真心こめて、誠心誠意、この本を手に取るだろう、時間という命の一部を捧げるであろう、読者のことを想い、だからこそせめて自分自身の精一杯の思いを紡ぐ――それが出発点であろう。それはプロとしての基本。まして仏教という道に立っているはずの者ならば、なおさらである。

もちろんそれは簡単ではなく、時間もかかる作業である。担当の編集者さんやその他の人たち――私であれば、読者さんや、里の活動・執筆を応援してくれる方々――の力を借りて、「どう書けば伝わるか」、工夫を重ねていく。それは誠心誠意の証である。そういう作り方で作っていける本ならば、世に送り出す値打ちがあるだろう。

どこからアイデアが生まれてもいいと思う。ただその最初のアイデアが、本という形をとって世の人々に送り出される過程には、やはり関わる人々みんなの情熱・夢・誠意がなくてはいけないだろう。ラクに走らないこと。自分がなすべき作業を、ひとに委ねないこと。むしろこれからまったく新しい本が生まれるのだという夢、プロとしての矜持を感じて、ときめきながら作ること。

でないと、本作りは、ただ売るための手段になってしまう。そうなってしまっては、本の世界の可能性が枯れていく。

本作りは、どこまでも人としての誠実さ、情熱、夢――がほしい。それが本を支える「命」ではないか。

私には今、いくつかの幸いな出会いがある。夢とプライドを持てる楽しい本作りができる環境に、ほんの少し近づいている気がする。なんとも、ありがたい僥倖である。

ただひとつ、自戒をこめて言葉にするなら、私は仏道というひとつの道を生きる身の上である。だから、「本を送りだす」ことが人生の目的ではないのである。本を送ることで、創り出すことで、誰かが少し幸せになってくれるかもしれない、この殺伐とした、放っておけば闇が支配してしまうような時代・世の中にあって、自分自身が真実だと信じるところを言葉にすれば、何か新しい価値・生き方・希望のようなものが生まれてくるかもしれない。そういう思いをこめて、「著者」という身の上を、「本を出しませんか」というお声を、つつしんで承っている。

もし願いがかなうなら、ここからまた本の世界にたずさわらせていただけるのなら、これからも、いろんな人たちと、本や教室や手紙などを通じて出会い、交流し、その中で見えてくる人々のいろんな思いを、自分なりの誠意・情熱・愛情、そしてブッダの教えをもって、本人の幸福に少しでも貢献できるような内容・文体・方法をもって、本という形に著していきたい。

だから、草薙龍瞬の本を読む人たちは、ここから先、「この本には、草薙龍瞬の〝今〟が、今の思い・誰かへの語りかけが、書かれているのだ」と思って、私の肉声だと思って読んでほしい。私は一言一句、自分の手で、心で、全人生をこめて、書いていく。

残された人生・時間の中で、どれだけ本という形で思いを伝えられるか、それは定かではない。

ただ音楽にたずさわる人たちが、そのときどきの場所・季節・時代・状況に応じて、発する音色が変わるように、本にたずさわる私の言葉もまた、その時々に応じて、生きているかのように変わっていくだろう。

ブッダの教えという〝本質〟は変わらない。大事なことは、本の中で繰り返し伝えたい。

ただ一冊一冊、そこにあるのは草薙龍瞬の「生きた」、最新の、正真の言葉である。そういうつもりで、本を手に取ってほしい。そして、残された時間を、本を通じて語らい、ともに生きていければ幸せである。

(来年3月、家族・親子に悩んでいる人に向けて、画期的な「ブッダの考え方」家族の悩み編、をお届けします。お楽しみに。) 

草薙龍瞬の約束として