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Q&A 妄想は伝えるべきか?――「理解してもらう」のはどこまで?

●おたより
 『反応しない練習』(キンドル版)を読ませていただきました。
ここ10年ほど、マインドフルネスや座禅を実践しており、心が作り出す感情や考えを客観的に観察し、反応しない練習を続けてきました。草薙様の本は、マインドフルネスや座禅より、一歩踏み込んで、その反応の原因にまで触れているところが、とても勉強になりました。 ありがとうございました。

ただ1点、疑問に思ったことがあります。

「反応しない練習」の中で、「自分自身の感情、思い、考えを相手に理解してもらうこと。これほど大切なことはありません。」(キンドルの179ページ)

とおっしゃっていますが、自分の感情や思いなどは、たいていの場合、「妄想」もしくは「妄想」に基づいた「心の反応」ですよね。

特に「怒り」などのネガティブな感情や批判的な考え、また相手にしてほしいこと・ほしくないことなどを相手に伝えることは、単に自分の「承認欲」を満たす行為ではないのでしょうか? ですから、人は、悩んだときに、他の人に話を聞いてもらうと、気分がよくなるんですよね?

実は、先日主人のある行為に、心が反応して(怒って)しまい、辛い1~2日を過ごしました。でも、私は主人には、何も言わず、じっと自分の心の反応を観察し、その原因について考えてみました。

私の怒りの原因は、主人の行為ではなく、私の考え方(相手に対する期待、物事に対する良い・悪いなど)に原因があるのは百も承知していたからです。

勝手な妄想に基づいて反応している自分の怒りや思いを主人に話すべきだったと思いますか? 「相手に有益なこと」であれば、言うというブッダの教えと、相容れないような気がしてなりません。「家族」というテーマとして、多くの皆さんにも共通する問題だと思いますので、ぜひご教示いただけるとうれしいです。 


――とてもよい(=多くの人に役立つ)ご質問だと思います。ありがとうございます。(なおKADOKAWAさんから『反応しない練習』の続編として、もっと具体的で実践的な「心の使い方」の本をお届けいただく予定です。もちろん「二匹目のドジョウ」の類ではなく(笑)、メチャ新しいスタイルの、超役立つ中身になりそうです。お楽しみに)

一緒に考えてみましょうか。

「理解してもらう」ことが大事なのは、「よき関わりを作っていくため」です。まずは目的から入りましょう。

相手とよき関わりを作っていくためには、お互いの思惑・要求・期待・妄想による「不快な反応の応酬」は避けないといけませんよね。

でもときとして、関わりの中で不快なやりとりが繰り返されてしまうのはなぜか。それは不快な反応を作り出す「原因」があるからではないでしょうか。

問題は、「原因」は何か???というところです。

もし原因が、自分自身の一方的な要求・思惑・勘違い・妄想にあるとすれば、原因は自分の側にあります。このときは「よき関わりを作る」という目的に照らして、自分の中の思いを「リセット」してあげる必要がありますよね。(「自分がいけない(未熟・いたらない人間なんだ)」と判断するのではなく。自分を責めるのではなく、です)

もし一方的な思い――そこには「承認欲を満足させたい」(認められたい・認めさせたい)という欲求もあるし、こちらの勘違い・疑い・妄想もあるでしょう――が、こちらに湧いてしまったとしたら、そこは「正しい理解」に戻って、自分の考え・感情をリセットしなくては。これは、こちらの課題です。

その点で、ご質問のご理解は正しいと思います。もし怒りの理由が、相手の行動ではなく、こちらの一方的な思い(承認欲・あるいは妄想)にあるとすれば、おっしゃるとおり、確かに原因は、こちらの考え方にあります。勝手な妄想にもとづいて思いをぶつけることは、間違い。それは確かに「有益」ではありません。

ただし、もうひとつの「理解」を持っておく必要があるかもしれません。

それは、「一方的にこちらが原因を作っている」のではなく、「相手に原因がある」場合です。

「有益である(=役に立つ)」というのは、「相手にとって」だけでなく、「関わりにとって」という視点もあります。

二人の関わりにとって有益かどうか――その視点にてらせば、相手にやはり「理解してもらう」必要がある要素があります。

それは、不快感の原因となっている「行い」と「言葉」と「思い」という三要素です。

このうち、「相手の思い」(悪意とか傲慢とか)というのは、こちらが理解しようとすれば「妄想の領域」に踏み込んでしまいます。だから、なるべく避けるほうがよい。かわりに見るべきは、客観的に確かめうる事実であり、「関わり」を作っている要素である、相手の「言葉」と「行い」の二つ――そこに、自分が感じている不快の原因があるかどうか、です。

もちろん相手の言動に「不快」と反応するのは、自分の問題なので、「反応しないようにすればいい」と考えることは一見可能です。しかし、実際の関わりというのは、反応あって初めて成り立つもの。だから、「ムダな反応はしない」ことは大事だけれど(だから練習(笑))、反応そのものは必要。大事なのは「不快な反応の応酬にならない」そういう関わり方ですよね。

とすると、関わり方において、相手の言葉や行いが、ちょっと自分にとって不快を誘うような、ときにあまりに非合理・理不尽、「ひどい」と思ってしまうようなものである場合は、「わたしはあなたの言葉(または行い)で、こういうふうに感じた(反応した)のだけれど」と伝えることは、意味があることになります。「よき関わりのために必要・有益」ということです。

その反応を伝える――理解してもらおうと努力する――ことで、相手がどうリアクションを返してくるか。そこは相手の領域です。相手の反応は相手にゆだねること。

もし本当の信頼関係、愛情、「よき関わりをこれからも育てていこう」という前向きな目的を共にしている相手なら、きっと受け止めてくれるでしょう。「言葉」と「行い」に的をしぼって、改善・調整していくのが、一番建設的な、実りある関係なのだと思います。いかがでしょうか。

まとめると、

●一方的な妄想、怒り、要求というのは、たしかに間違い。それはぶつけてはいけない(ぶつけてしまったら、素直に謝りましょう)。

●ムダな反応はしないように心がけつつも、でも人間同士、ときには、行いで、言葉で、相手に不快な思いをさせてしまうこともあります。もし「行い」と「言葉」という客観的な物事によってそういう反応が生まれてしまったとしたら、その行いと言葉という「原因」は、正しく理解するようにしましょう。

その「原因」が自分の側にあるのなら、正しく理解する。素直に謝る。向こうから指摘してもらえたなら、「感謝」ですよね。

逆に、もし向こうに(客観的にみて)「原因」があるのなら、その「原因」にわたしは反応してしまったのだ、ということを「理解してもらう」ことです。

つまりは、①「内なる反応」と、②客観的な「行い」「言葉」とを分けて見る、ということでしょうか。

後者② は、自分の側の課題であるとはかぎらないのです。客観的に相手の問題であることもあります。区別する視点、は大事です。

ときどき、力関係のかたよった、一方の無理解がまかり通っている関係を見かけます。

聞く耳を持っていない親とか、一方が苦しんでいる夫婦の関係とか……。そういう関係には、たいてい、一方的な思惑・妄想・要求にもとづく「行い」と「言葉」とがあります。そこが原因なのだということを、客観的に突き止めることができるかどうか。

理解してもらえないことは、辛いのです。相手の「行い」と「言葉」で傷ついている。そのことは「理解してもらう」ことが大事なのです。

人によっては、「自分が我慢すればいいのだ」「悪いのは自分なのだ」と言い聞かせて、辛い思いをしていることがあります。そういう人は、ぜひ「不快な思いをしている原因は何か?」を冷静に考えてみてください。

相手の「行い」と「言葉」がたしかに存在するのなら、原因は自分ではなく、相手です。相手のどういう行い・言葉に自分は反応しているのか、「理解してもらう」ことは、関係にとって有益、大事なことなのです。

――ざっと、思い浮かんだことを挙げてみました。考えてみてください。

なお、家族のこと、人間関係のこと、「これはどう考えればいいの?」と思うことがあったら、どんどんお寄せ下さい。返事は(ほとんど?)できないかもしれませんが、必ず、メール通信やこれから出す本のなかで汲みとっていきます。 (今回のように、執筆の合間に気分転換に執筆?することもございます(笑))。

『反応しない練習』のラスト、「生きてまいりましょう」は、そういう思いで伝えました。これからブッダの考え方を、人生に、世の中に、もっと破格の効果をもって活かしていこう、という呼びかけでもあります。一緒に考えてまいりましょう。