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年の瀬のご挨拶&最近の話題「お坊さん便 アマゾン対全日本仏教会」について

12月27日(日)
こんにちは、草薙龍瞬です。

いよいよ、みなさん年越しモードに突入されたのでしょう!

一年、お疲れさまでございました。みなさま、よう頑張ったのですね! めでたい、めでたい(?)。

●私は昨日26日で「講座納め」でした。一年の間、いろんな場所でいろんな方々と巡り逢えました。よきご縁をいただきました。

12月23、25日の年納め仏教講座・クリスマスバージョンでは、懐かしの人たちも来てくれました。久しぶりに再会できるのも、無上の喜びです。

この場所は「仏教の本質」を学ぶ場所ですので、形はいろいろあっていい。「メリークリスマス!」とお便りくださった方々、ゼンゼンOKでございます。

●「仏教の本質」といえば……最近、アマゾンが始めた「お坊さん便」――法事葬儀に一律金額でお坊さんを派遣するサービス――に全日本仏教会が猛反対しているとのニュースが、朝日新聞他に載っていましたね。

彼らがいつも言うのが「宗教行為をビジネス化してはいけない」ということ。

しかし、「宗教行為」と「ビジネス」というのは、まったく別物です。ビジネスというのは、

①対価を交換して、それぞれの活動を支える(これは双方に利益のある純然たる取引行為)

②過剰な利益を追求して、一方の側に受け取る価値以上の損失・出費がある

という二つの可能性があります。①は公平(フェア)で、②はやりすぎ(一方の貪欲が通ってしまっているシステムそのものに問題あり)。

もし「お坊さん便」が、①のフェアな取引であるなら、今や都市人口が増えて、昔ながらの檀那寺を持たない人にとっては、価値あるサービスになる可能性がある。

坊さんもその機会を活用すればいい。生活を支える経済活動そのものは、けして否定すべきものではない(むしろ不可欠)。

●最大の問題は、全日本仏教会の主張である。「宗教行為だから」と語りつつ、

○では、宗教行為とは何なのか?
○現在、仏教界で行なわれている寺・僧侶たちの活動(法事も含め)のどこに宗教行為としての意味・尊さがあるのか?

がはっきりしない点。

全日本仏教会は、「布施」は「六波羅蜜」(悟りに達するための六つの修行項目)の一つだから、ビジネスにしてはいけないという。

しかし「六波羅蜜」は、「僧侶にとっての」修行項目だ。僧侶たち自身が自らの修行として率先してやるべきもの。別に悟りをめざしていない市井の人たちに 「布施は修行だから、それをアマゾンなんぞを介するのはダメ」とはまったく言えない。主張がズレている。つまり彼ら自身が「布施」とは何か、「宗教行為」 とは何かが、わかっていないような印象を受ける。

だから一般の人たちがモノ申すとすれば、
「それ(修行としての布施)をやらなくちゃいけないのは、あなたたち。私たちは、葬儀・法事を、もっと心ある形でやってほしいのです。当たり前のように「布施」を求めてきて、何に使っているのか定かでなくて、その額もはっきりしなくて、ウチの田舎のお寺みたいに行事ごとに多額の布施を求めてくるというのは、納得いかないのです」ということだろう。

別に、法事の機会がネット上のシステムで生まれたって、そのこと自体が「宗教行為」を害することにはならないということだ。

もちろん数ある「商品」の一つにしか見えない今のサイトの作り方は、さすがに「世も末」というか、もう少し「宗教行為」面への敬意・配慮が欲しい気もする (笑)。法事には「ただのビジネス」ではない面も、というかそちらの面の方が強く、厳然としてある。そこを軽薄化してはいけない。「冒涜」というのは、ときにそういう思慮の不足から来る。

●今回の騒動の一番の問題は、仏教界が、ふだん自分たちが行っている法事・行事・その他僧侶たちの行い・生活が、あまりに「宗教行為」からほど遠いこと。それを自分たちが自覚していない点にある。

布施? 六波羅蜜? それを真摯に実践している僧侶たち(これは、あくまで僧侶の側の問題であって、市井の人は関係ない)は、どれくらいいるのだろうか。

彼らは二言目には「宗教行為」と語る。しかし、今の日本仏教界――寺をマイホームとし、ビジネス界以上の恩恵をこうむり(宗教法人は無税だとか)、酒・タバコその他「修行にまったく関係ない」物事に手を出して平気でいる僧たちのコミュニティ――に、その意味を知っている(真摯に受け止めている)人が、どれくらいいるのだろうか。

ちなみに、「宗教行為をビジネスにしている国は他にはない」とも全日本仏教会は主張している。だが、「ビジネス」に乗っかっているのは僧侶たち自身である。もし反対するなら、「お坊さん便」に登録している僧侶たちにモノ申すべきではないか。

●「宗教行為」は、経済活動では、けっして生み出されないものだ。

ひとの喜びと悲しみを思い、慈しみをもって、何かしら人の幸せに役立つ働きを果たすこと。

あるいは自身の心の清浄と、苦しみからの解放、世俗の世界にはない目的をめざす生き方のことだ。

そうした生き方・営みを、現実の世の中で、悩み葛藤しつつ、追求していくこと。「宗教行為」と訴えたいなら、まずそこを自らの行いをもって果たすことが先決になる。

もし僧侶たち、あるいは仏教界が、ビジネスや世俗の活動とは画然と違う、人が心洗われるような、あるいは死者を弔うことの本当の意味を感じとれるような、 人々が世俗の価値観や自らの生き方をふと問い直したくなるような、そういう真摯・誠実・真剣な活動を、「法事」という場で共有できれば、「宗教行為としての面を大切にしてくれ」という主張は、説得力を持つ。人々だって納得するだろう。そういう部分に、仏教に携わる者たちは努めるべきではないか。自戒もこめて、そう思う。

●重ねていうなら、「布施」は、僧侶たちが率先して行うべき修行の徳目(=働きを果たすためのメニュー)である。もし「布施」を求めるなら、「目的」を明示して、自分たちの身の上を支えるための「経済活動」とは別に募ることだと思う。もちろん最低限の「戒律」(自制)を保っていることが前提だろう。

心ある人たちは、そういう真摯な目的に共感して、そして僧たちの慈悲の思いに慈悲をもって感じ入って、できる協力をするだろう。それが「布施」である。

つまり「布施」を主張するなら、主張するに足る身の上を示さなければいけないということ。そこがはっきりしないかぎり、人々は納得しない。似たような話題はこれからも出てくるだろうと思う。

時代に振り回されない、これぞ仏教、これぞ道に立つ者と思える中身を、しっかり鍛え上げることか。謹んで精進したい。

――と、余談が膨らみすぎてしまいましたが、みなさま、よき年の瀬を!

一年、ありがとうございました。

草薙龍瞬敬白合掌