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やらなくてはいけないこと(旅の終わりに)

1月27日
●飛行機でムンバイへ。この大都会でも、仏教徒の友人たちと再会。

カビールという青年は、コンピュータ会社をやめて、音楽スクールを始めた。仏教の歴史などを歌に載せて伝える音楽活動も。今や、デリーやムンバイといった大都会のコンサートホールを満員にするくらいの売れっ子ミュージシャンに。

彼のバンド Dhamma Wings  びっくりするくらい本格的、というかプロです

来年やる大法話会にも、協力してくれるという。人々をインスパイアし、動機づけ、しかも楽しんでもらえる音楽が必要だ。

実は、今回も含む二度の法話会では、終わりになんと歌手のダンスコンサートがあって、それを楽しみにして集まった民衆も多かったと判明したのだ。インド人らしい発想なのだが、これはいけない(笑)。主催者たちに注意した。最後に残るのが、ボリウッド音楽では困るのだ。ちゃんとブディズムを持って帰ってもらわないと。

音楽がダメというより、内容、効果の問題。プログラム案をラケシュたちに伝えてきたが、はて来年はどんな大会になることであろうか……。

『反応しない練習』のタイトルが、カビールたちにかなりウケていた。ぜひ英語で出してほしいとの要請が。たぶん世界共通のテーマなのだろう。

最後は、ムンバイの喧噪に満ちた通りをカビールの車で疾走して、国際空港に到着。

●今回も、鮮烈、濃密、深く考えさせられる旅だった。インドは、人間も、空気も、自分自身の仕事も、すべてが濃い。

インドに突入するときは、倍の重力をもった星にランディングするような覚悟がいる。特に今回のように、お陰さまの仕事が重なって心の準備をする余裕もなくインド入りした場合は、重力は二倍、三倍になる。

体力は使う。ただ、その重力は最初だけで、そのうち現地の人々の情熱や、個性、面白さに順応して、こちらの心のボルテージが上がっていく。熱血と使命感モードがオンになる。

日本の活動も創造的で、美しくて、面白いのだけど、インドはインドで、まったく違う面白さがある。

やらねばならぬ……という感慨をもって、帰路についた。


●振り返っての感想を――

今回もやっぱり、仏教をとりまく厳しい環境について、いろんな声を聞いた。

もちろん他の宗教との軋轢もあるが、仏教内部にも危うさが目立ち始めている。これは、日本であれ、インドであれ、他のどの仏教国にも同じことが当てはまる。

たとえば、村に訪れてきたある社会活動家は、モンク(仏教の僧侶)をインド仏教徒があまり尊敬しない、布施も集まらなくて苦労していると言っていた。

それはごく自然なことで、現地のモンクたちは、社会の改善に役立つ言葉をほとんど語らないし、動かないからだ。そして人々に「お布施」だけ期待する。理屈に長けた坊さんなら、二言目には「輪廻」「来世転生のための布施」を説く。

仏教とは、輪廻を説くもの、来世のための功徳を説くもの、という伝統が、たしかに存在する。しかも根強く。

しかしそんなものは、三千年、ヒンズーの非合理な差別思想に苦しみ続けてきた、インド仏教徒には通用しないのである。

彼らが求めるのは、テーラワーダでも、大乗でもない。「現実を変えるための智慧」である。

理屈や世間知に長けた僧・長老たちではなく、現実をとことん見すえるホンモノの智慧の持ち主「アンベドカル博士」こそが、彼らの帰依の対象なのだ。

私自身は、「アンベドカルの思想」を強調する立場にはない。インドでは、アンベドカルに奉じる人たちを「アンベドカル主義者Ambedkarites」と呼ぶが、しかし特定の立場にこだわってしまっては、無用な対立・隔絶を招いてしまいかねないからだ。

ブディズムは、つねに〝本質〟を見る。共有しうる価値こそを〝ダンマ〟として置く。

アンベドカルの本質のひとつは〝慈悲〟である。彼は自らがアウトカーストして味わった差別への怒り、憤りをバネにして、勉学に励み、インドに奇跡を起こした。共和国憲法の起草、戦後初代法務大臣としての憲法・法律の施行、さらに絶滅していたインド仏教の復興――まさにミラクル(笑)。

彼が偉大なのは、個人的な「怒り」を「社会的憤り(義憤)」に昇華し、さらに不可触民たちへの「悲の心(カルナー)」へとつなげていったことだ。

もしアンベドカル思想を、特定カーストの人々の「主張」にとどまらず、インド社会へのメッセージとして発信し、実際に社会を変えていく力としていくためには、結局は「悲の心」にたどり着かねばならない。

そのとき、二五〇〇年前のブッダと、アンベドカル博士、そして現代のインド仏教徒たちが、「普遍的な心の使い方」としての〝悲の心〟をもってつながる。

その「心の持ち方」は、もはや「ブッダの」という冠言葉がいらないくらいの、全人類が共有しうる智慧になる。

最終的には、そこまで〝本質〟へと昇華しなければいけない。

はっきり言おう――クリスチャンであれ、ムスリムであれ、シークであれ、仏教であれ、「カタチ」「言葉」に囚われていてはいけない。そんなものは、本質ではない。人間個人が、苦しみを抜け、それぞれに幸福を感じ、他者を苦しめず、いたわりと工夫にもとづいて調和のとれた関係を作れること。それこそが、大事なのであって、どの「宗教」――言葉・儀礼・装い・ふるまい――が正しくて、それ以外は許されないと考えることは、人間の我執(自分の欲望・思いへのとらわれ)にすぎない。

〝宗教〟を目的にすえてはいけない。人間が作り出す言葉・物語そのものを真理として見てはいけないのだ。

すべての人が幸福を感じられるための、対立を生まない考え方こそが必要なのである。

毎回インドに来るたびに、そんな思いを強く持つ。そして、分かち合える人々が、この地にはこんなにもたくさんいること、つまりはこの地でやらねばならないこと、できることが、すさまじく多いことを実感するのである。

そして、この地でさずかった、楽しく、ひとが良く、尊敬できる友たちの存在――今ある関係は奇跡みたいなものである。よくこの地にたどり着き、よく彼らと巡り合ったものだと思う。


●29日に、日本に到着。なんか宇宙旅行した感じ。インドは違う惑星だ。

日本の、凛とした冷気に入ったときに、今度は日本モードオン。はい、原稿書きます(笑)。

なんて透き通った空気だろう、あまりに澄んでいて、美しい、この空気だけでもおカネ出して買う価値があるかもしれない、炊き立てご飯で作ったおにぎり食べたいな(←妄想どまり)、まずは銭湯かな――そんな感慨に遊びつつ、帰宅。

さあ、怒涛の執筆作業へ。ちょうど、リクナビにインタビュー記事載せていただきました(シェアよろしくお願いします)。 http://next.rikunabi.com/journal/entry/20160131