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「妄想の檻」の抜け方

3月28日(月) ※4月の講座日程は末尾にあります↓

4月15日発売の『これも修行のうち。実践!あらゆる悩みに「反応しない」生活』KADOKAWAのオーディオブックの収録終了。

今回は、全編、著者自身による朗読・語りかけバージョンの特別版。

本の朗読は、声優さんによるのが通例だが、中身は仏教の話、しかも魂魄【こんぱく】こめて言葉を紡いでいる著者自身の声のほうがよいだろうと、版元さんとアマゾン・オーディブルのお力添えを得て実現したもの(^人^)。

私としては、たとえば仕事帰りの電車やバスの中で、休憩中の喫茶店で、あるいはご自宅や入院中のベッドの中などで聞いてもらえたら……という思いでいる。「声」だからこそ伝わる何かがあるだろうし、「著者自らによる語りかけ」だからこそ汲みとれる微妙なニュアンスもあるはず。

とにかく、書くも、語るも、(当たり前の話だが)本人が、真心こめて、というのが、基本のはず。

3時間、3時間、そして今日は4時間かけて、最後まで朗読。じつは昨日行った埼玉での法事のあと、いきなり花粉症に。鼻水たら~~~と垂らしながらの朗読となった。さらに終盤は、空腹による激しい胃の音にも襲われつつの収録だった。

朗読中に、いきなり「ぐぅ~~~」と鳴るのである。その制御不可能な音を、拾わなくていいのに、好感度マイクが律儀に拾う。

「すいません、もう一度お願いします」と、ミキサーさん。

で、がんばって読み直す。ところが融通利かぬ胃袋が、また途中から派手にぐぅうぅぅ~~。すいません(汗)。

「もう一回、お願いします」とヘッドホンを通してミキサーさん(顔が見えないのが、いっそう恐縮を誘う)

「いや、たぶん鳴りますよ。絶対鳴りますよ――」「はい、キュー(録音)」「ぐぅううぅう」

こゆときは、息を思いっきり吸い込めばよいのか、むしろ吐き出せばよいのか――どちらもやってみたが効果なし。胃袋音の襲撃を恐れつつ、なんどかリテイクして、冷や汗たらたら鼻水だらだらの壮絶な収録を、おかげさまでなんとか終えたのであった……(疲れた)。何をするにしても「行」【ぎょう】になってしまう性分なのか。

本を書かせていただくのも、声を収録してもらうのも、「終わった」感じがしない点が共通している。というのは、ライブ(教室)とは違って、聞き手の「リアクション」がないからである。たとえるに、試験を受け終えた受験生、みたいな心境(やっぱり、苦労性なんだなT T)。

とにかく全力を尽くした。結果はいかに(さて、これから何をしたらよいのか)――という宙ぶらりんな感じ。あとは、本やオーディブルのご感想をお寄せいただくまで、待つしかない。

「さて気晴らしに何をしようか」と思ったが、結局、ヤクルトジョア(今回はプレーン味)でひとり晩酌して終わった(笑)。なんという無趣味な……いや、シンプルということである。いいじゃないか、出家だもの。
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さて、まじめな仏教の話――

●「妄想の檻」の抜け方について、簡単に考えておこう(わりあい反響があったので)。

他者(親であれ上司であれその他の人間であれ)の「妄想」にこちらが囚われてしまったとき、

こちらは何一つ受容された感じがせず、ただ裁かれている。支配されている。干渉されている。上から見られている。バカにされている。抑圧されている。そんな感じがするものである。

なぜ物理的に違う脳の中の妄想に、こちらが心支配されてしまうかといえば、やはりこちらになんらかの「執着」があるからである。

わかってもらいたい。愛されたい。評価されたい。尊敬されたい。可愛がられたい。もう一度やり直したい――そういう願いを相手に向けた時、「相手の妄想」に自分が迎合する・合わせるしかなくなる。

執着の「進行状況」によって、いくつかの症状が出てくる可能性がある。

1、相手が何を妄想しているか(考えているか)わからない段階なら、「なぜわかってもらえないのだろう」「なぜ認めてくれないのだろう」とひたすら執着がかなわぬ現実に苦しみつづける。その心理は「若い頃の一方的恋愛」に似ているかもしれない(わかる人とわからぬ人がいるだろうが(笑))。

2、その次は、執着をかなえようとして、相手の妄想をなんとか理解しようと努力する。このとき見えてきた相手の妄想に、こちらは全力で応えようとする。これは、自分の世界しか見ていない親に、必死で迎合して「お利口さん」でいようと頑張る子供の心理である。

3、さらに、その「妄想への迎合」が強化されると、今度は、自分自身が、相手と同じ妄想の虜【とりこ】になっていく。相手(たとえば親)の期待や価値観をそっくりそのまま自分の内面に取り込んで、自分自身に同じ期待や価値観を向ける。相手がこちらを否定的に判断――裁いたり罰したり――する人間であれば、今度は、自分のほうから進んで同じように自らを裁いたり罰したりするようになる。

4、かくして……相手の妄想の檻に完全に取り込まれてしまうか、自分自身が(相手とそっくり同じ)妄想の檻を築いて、その中に自らを閉じ込めてしまうか、という不思議な状態ができあがる。


●いずれにせよ、その妄想の檻から抜け出すには、二つの心がけが必要になる。

ひとつは、相手への執着を抜け出すこと――認められたいのか、愛されたいのか、受容されたいのか、それがどのような期待にしても、「この相手に期待・執着を向けることは、完全に間違い(勘違い)だ」と、どこかではっきり気づくことである。そして「相手を見ない(視野に入れない)」練習をすること。「心の中で追いかけない」ことである。

人によっては、執拗に、相手のことを想い、心の中で追いかけていることがある。しかしそれこそが、執着が作り出した妄想である。「これは執着にすぎない」「妄想にすぎない」「追いかけてはいけない」と、懸命に努力して「見ない」練習をすること。

これは、『大丈夫』に記した通り、最初は「闘い」になる。ラクにできることではない。ただ、つい追いかけてしまう・見てしまう・想ってしまうという心のクセを、どこかで手放すしかないのである。もともと「妄想の檻」状態が、心にとっては不正常な、もっといえば異常で病んだ状態なのだ。その状態には、本人が一縷の願いをかけているような「善い点」などひとつもない。

●そして、自分自身もまた「妄想の檻」に囚われていることに気づくこと。いつのまにか、相手の思惑・期待・判断をもって自分自身を見るようになっている。人によっては、相手の妄想を取り込んで、あるいは相手の妄想にとっぷりと浸かって、その他者の妄想を通して自分自身を「否定」していることがある――相手の妄想を基準にすれば、(それに適合できる人間など、本人以外にはいない以上、)本人以外の人間は苦しむに決まっている。

苦しむことがわかりきっているのに、なぜか心は他者の妄想に身を委ねてしまう。それほどに、執着――変わりたくないという心の性質――は、強く執拗なものなのだ。

他者の妄想しか、自分の心のうちにない状態――これは、苦痛であり、虚しくもあり、生きている実感がせず、自分が自分のままでいることが「許されない」と思えてくる状態である。「妄想に完全占領」された状態だと思ってほしい。

●ただ――この自ら作り上げた「妄想の檻」は、実はカギは開いている。扉さえないこともある。 案外、心は、自由のすぐそばにあったりするのである。

ただ、人によってその檻を出ることがコワイのは、慣れきった「妄想の檻」以外知らないからである。その浸かりきった妄想を抜けて、いったい今度は、何を持って心を埋めればよいのか……その戸惑いが、本人が感じる、恐怖だったり、ためらいだったり、虚しさ・心の空洞だったりする。

●その心の抵抗を抜け出すまでの時間は、人さまざまである。

ただ、檻の中の動物が、外の景色を見ることができるように、妄想の檻に閉ざされた心にも、案外、外の世界は見えているものである。

その体の感覚は、外に出てもそのままだ。感情も、思考も、意欲もまた、同じように湧いてくるはずだ。

変わりうる最大にして唯一のものは、その檻の中で見続けてきた「相手」だけである。

「妄想の檻」を抜けようとし始めた心からは、「相手」は消える。もう見えなくなる。それまでの「執着」は、もう通らない。「相手」も「執着」も、もうサヨナラである。

そのときには、新しい相手・新しい人・新しい世界が見えてくる。世の中は面白いもので、縁・つながりというのは、意外と見つけられるものである。

過去の相手の不毛な「妄想の檻」に執着せず、また築き上げたこちらの「妄想の檻」からも抜け出してみること。そのために、「妄想とは違うカラダの感覚をよく意識してみよう」と、仏教は伝えているのだ。

「もっと自由な場所で生きていい。こちらにおいで――」と、語りかけているのである。


●今、あなたがため息をついている日常の中で見ている景色を、もう一度よく見つめてほしい。

そこには、「光(視覚)」と別に、アタマの中の妄想・執着もまた混じっているはずである。 「クリアに見えていない」ことは、なんとなくわかることだろう。

目を閉じみよう。そのとき、アタマの中の妄想・執着が見える。

目を開いてみよう。妄想・執着は薄くなって、外の光が入ってくる。

毎日、ながめる景色を見つめながら、こう考えてみるのだ――「待てよ、妄想以外に今見えているものがある(視覚)。これは、妄想ではないのだ。「妄想の檻」以外の世界も、おそらくわたしが今見ている以上に、はっきりと存在するのだ」。

「妄想以外のモノをよく見るように努めよう」。がんばって、見るもの・聞こえるもの・匂うもの・味わうもの・そして肌で感じる感覚や温度を「よく意識する」練習をすることである。そのことで、心は目覚めていく。

「妄想の檻」以外の世界に、あなたはいつでも出られるということである。

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4月2、9、23日(土)午後6時から これからの生き方を考えるための仏教講座  神楽坂
4月3日(日)午前10時から     座禅と仏教のはなし  神楽坂
4月7日(木)午後2時から      おとなのための仏教講座  巣鴨
4月16日(土)午後2時半から    興道の里いわて設立記念法話  岩手盛岡
4月22日(金)午前10時~       TOKYO FM (および全国JFN系列ラジオ) ※聴いてみてください

――講座内容・場所は、ブログ内のカレンダーをご覧ください。