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「これから40年」を新しく生きよう

こんにちは、草薙龍瞬です。
そろそろ全国行脚の訪問地募集の時期がきました。近々お知らせします。

最近出会った幾人かの悩みを聞いて感じたこと――それは、ひとはみな「子ども」のまま、40歳を越えることが、ごくふつうなんだということ。

親への怒り、期待、愛されたかったという思い、執着――。ある人は、親に対する「生理的嫌悪感」が、「強迫性障害」なる心のクセ(世間では、障害・病気ととらえるようだが、それはあまり正確じゃない)を作り出していた。

「親」というのは、じつに千差万別で――だからこそ、子どもが抱える執着や怒りも、ほんとうにさまざまで――。

ただ、共通しているのは、みんな「苦しみつづけている」ということ。淋しがりつづけている。怒り続けている。自分を否定し続けている。「負けるものか」と親に張り合って、その結果プライドでガチガチになって、世間的には十二分に働けているのだけど、心は緊張して疲れている――いろんな「苦しみ」がある。

思いきり「記号化」すると、人はみな「子ども」なのである。親に何かを、いまだに期待し続けている。求めつづけている。それゆえに不満や淋しさを抱えている。

「執着」と「嫌悪」が同居している。だから、心は混乱したままだ。疲弊したまま。分裂したまま。苦しいのは道理である。

それでも「子ども」として、「理想の親」を夢見て生き続けてきて、あっという間に30年、40年を生きてきてしまう。ほんとうは「現実の親とは、ただの人間であって、自分が思い描いている親の姿というのは、ただの夢=妄想でしかない」と、はっきり見きわめてもいいはずなのだが、「夢見る子ども」にはそれができない。「そういうひと」として見ることができず、「子どもである自分の夢をかなえてくれる、うつくしく、ありがたく、感謝すべき親」を、心のどこかで夢見ている。

その「夢見る夢子」の状態が、得体のしれない「怒り」を作り出す。なぜか心は、どこか、いつも怒っている。憎んでいる。渇いている。

そして、なにもかもが「停滞」しはじめる。

●「親に対して夢見ること」は、30年、40年経っても、終わるものではない。「夢」はおそらく一生続くかもしれない。

ただ、「苦痛」「不満」のほうは、徐々に心を占領し、むしばみ、汚染し始める。それが「そろそろ耐えられない」と思い始めるのが、30代半ばから40代なのかもしれない。

私のところに相談にくる人の中には、40を過ぎている人がけっこういる。「苦しむことにかなりがんばってきた」人である。ほんとうは、「夢」を手放していいのに、あるいは、とっくの昔に見切りをつけていいのに、なぜかまじめに、律儀に「親への夢」を一生懸命引っ張って、40年以上生きて、どうしても逃げられない苦痛・重力・虚しさに気づき始めた――という感じ。

「あれから30年」というきみまろ師匠のネタがあるけど(笑)、

「あれから40年」というのは、「苦痛が閾値【いきち:限界】を超える」ひとつの時間の区切りなのかもしれない。

物心ついた時から苦痛を感じていた心は、そこから40年なんとか生きて、「やっぱり苦しい」と自覚する。そして「格闘」し始める。人によっては、そこからいろんな場所・人を訊ねて、「解決策」を探し始める。「ブディズム」に巡り合って、劇的に、短期間で変わる――苦痛を抜け始める――人もいる(考えればかなりラッキーな場合かもしれない)。

人によって苦痛を越える歳月は、さまざまである。もし、「いい子」だったり「親・過去を弁護」したり、自信過剰・勝気・プライドに執着したりすると、苦痛が長引くことがある。

ほんとは、「このまま生きていても意味がない(しようがない)」という、あきらめ(諦念・自覚)が大事なのだろうけど――。

●相談に来る人の中には、「変わるのがコワイ」「あきらめてしまったら、虚しさ・寂しさが残る(宙ぶらりん)」と訴える人がいる。

その先、どちらの道をゆくかは、その人が選ぶこと。しかし――

「過去を繰り返して生きることに、本当に意味があるのか」

「これまでの40年を、残された40年、また同じように生きるのか」

「そのかなわぬ夢(親への思い)にしがみついて、この先何が生まれるのか」


というところを、何度も何度も、自問して、自答するしかないのだろうと思う。

ちなみに、私は、2歳から「格闘」しはじめて、「抜けた」のは40歳前後である。やっぱり「40年」かかっている。ただ「苦しみを抜ける方法」を知らなかったからそれだけの時間がかかったのであって、ブディズムというひとつの方法にめぐりあっている人(あなた)は、もっと早く抜け出せる可能性が高い。「踏み出してみれば」何かが変わる。そのことを恐れてはいけない。そのことに「希望」を見るべきである。【「でも……」「そうは言っても」といいたがる人は、それだけ「執着」が強いことを自覚しよう(笑)。ただ、どのような執着も、結局のところ、執着するに値しない、取るに足りぬものである。】

親であろうが、過去であろうが、かつての夢であろうが――いさぎよく手放せる時機(タイミング)を待ちたいものだ。それは「ただ待つ」のではなく、「このままでいてもしようがない」という自覚を繰り返すことで、徐々に近づいてくる。「あきらめ(手放すこと)」には、時間が必要だし、労力がいる。ときに心の痛み・つらさ・恐れをも伴う。

でも――「もう40年も」生きてきたのだ。十二分ではないか。


●ある人のお便り(『反応しない練習』を読んでの感想)――

「長年悩みたくて悩みたくて、しかも苦労をしたくて、苦労をしたくて、しょうがなかったのですが。そ
れが終わったようです。

52才とはいえ人生はこれからです。

長年したかったのにできなかった勉強もやっと出来るようになりました。」


――そう。40代、50代なんて、まだまだこれから。というか「子ども」であり「若者」。

これから、自分自身の人生を始めればよいのだ。楽しもうと思えば、楽しめるものである。生きてきた年数がどれくらいであろうとも、心が感じる喜び、というのは、あまり違いあるものではない。今日一日を自分なりの楽しみ方で楽しむというのは、いつからでも可能である。

「これから40年」を、今度は、自由に、楽しんで、生きよう。


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苦しみの業は越えられる