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私が幸せでありますように???(慈しみの念じ方)

こんにちは、草薙龍瞬です。今回は「慈しみ」の育て方について――

(慈しみ、って仏教固有の言葉に聞こえるかもしれないけど、ひとの幸せを願うだけでなく、自身の心を成長させる・悩み苦しみを抜ける上で「合理的な心の使い方」でもあります。ちょっと触れてみましょう)

「慈しみを心がける」(慈悲の瞑想)というのは、仏教の基本中の基本。そのスタイルには、いくつかバリエーションがある。ときおり聞くやり方は、

「私が幸せでありますように」と念じる(想う)ところから始める、というもの。

ただ、これは、ブッダの心の使い方からすると、2つの点で「奇妙」。

ひとつは、「私」という主語を置いていること。そもそも、慈しみというのは、自我――「自分」を作っているさまざまな心の反応の総体――を抜けて(つまりは無我・無私)となってもなお残る、「他の命に向ける心がけ」のこと。

だから、自我を超えたブッダという人もまた、慈・悲・喜・捨の心は、保ちつづけていた。

およそ心が、他者・他人の命に向き合うときには、
「(反応しないで)正しい理解に努める」という心がけと、慈・悲・喜・捨の心がけが、基本になる。

(それ以外の向き合い方――たとえば欲・期待や、妄想、慢、というのは、もはやありえない)。

つまり、慈しみという心がけと、「私」というのは、究極のところは両立しない。

そもそも、「私が」という意識にとらわれているかぎり、他の命の幸福を純粋に願うところまではたどり着けない。そうした心がけでは、自我を越えることはおそらくできないだろうと理解することが正しい。

だから「私が幸せでありますように」というのは、正しい心がけではないということになる。そもそも、ブッダの言葉にはないし、慈しみの教え(慈経・スッタニパータ)にも、「幸せでありますように」は、「生きとし生けるもの」に向けた言葉として載っている。(その「生命」の一番最初に「自分」を置くというのは、発想としてはありうるけど、はてそれはブッダの考え方として合理的なのでしょうか?)

●もうひとつ奇妙なのは、「幸せ」とは、自分自身の方向性に他ならないのに、「……でありますように」という婉曲表現を使っていること。

「……ように」というのは、執着できない対象――つまり他人か未来――について使う言葉。

「自分の幸せ」というのは、一見「未来」のことに思えるかもしれないけど、ただの未来ではない。自分自身が「必ずたどりつくぞ」と決意すべき「方向性」のこと。

仏教の世界には、「方向性を定めて、そこに向かって全力を尽くす」という発想がある。それを「決定」【けつじょう】といい、「信を持つ」ともいう。

その方向性として、仏教においては、「悟り」とか「涅槃」とか「安らぎ」「幸福」といったものを置く(※ちなみに、仏教全体の中で「人生の目的」とされるものは、十数個もある。「どれか一つ」に限定されるものではない。限定してしまえばそれはドグマ=教条と化し、凡庸な宗教のひとつになってしまう。目的は自分で選ぶことが基本)。

そもそもブッダ自身が「決定」の人だった。「究極の安らぎ」にたどり着くための最後の瞑想に入る時には、「肉もただれよ、骨も砕けよ、悟りを啓くまで、私はこの場所を立たないであろう」と悲壮な覚悟をしたといわれている。

そこに「私は悟りにたどり着けますように」というような、なまぬるい、お気楽な思いはない。(そもそも「方法」がはっきりしたときには、「必ずこの精進(努力)によって結果にたどり着ける」という不動の確信を持つものです)

ただの「願い」というのと、「決定」(決心)というのは、違う。

そして、「道」というのは「決定」を持ってのみ始まるものだ。

だから、もしひとが「幸せ」を本当に大切にしたいというなら、

「私は幸せに必ずたどりつきます」
「私は、幸せへの道を歩いています」
 
 
と、きっちり決意することが必要になる。

その一方、他の命・相手に対しては、けして執着できないし、相手には心の自由というのがあるので、「相手は・生きとし生けるものは幸せです」と断定することも、「幸せになれます」と約束することもできない。相手に誠実であろうとするなら、
「幸せでありますように
​ ​
May all living beings be happy」と願うしかない。ここは、心の底から願うことが、練習(修行)になる。

執着はしないが、純粋に相手の幸せを願う――それが「慈しみ」。この思いが、自身の心そのものを浄化してくれる・成長させてくれる、というのは、なんとなくわかる気がするのではない
​でしょうか――。

●さて、最近、家族・人間関係についての相談メール
​をいくつかもらったのだけど​(不和になった相手と和解するかどうか等)、

「相手が幸せでありますように」と願う心と、

「私は、私自身の幸せへの道をきちんと生きていきます」という決意を、

まずは分けること。そして、両方はっきりと念じる(心がけとして持つ)ことが、最初の作業になる。

前者は「慈しみ」であり、後者は、自分の幸福への決意。

それぞれの思いにしっかり立った時に、「相手を許す」「怒り・期待・妄想を手放す」という思いが自然に出てくる。(※逆に言うと、「許す」「手放す」とだけ、最初にアタマで念じてもあまり変われないかもしれないということ

相手がどのような応対を示そうとも、それはこちら側の・自身の「幸福への道」には関係がない。そのようなものに心動揺させても、役に立たない。

自身は、ひたすら幸福への道を歩くのみ。そこに意を注ぐこと。

その途中で、相手が思いを変えて、再び近づいてくるかもしれない。そのときは、また受け容れてあげればいい。

とにかく、まずは自身のめざす方向を見定めて、そこに近づけるような心がけだけを大切にする。それこそが、自分を大切にすること。「自分への慈しみ」である。

そして相手のことも、過去も、手放して、相手に向ける思いは、「幸せであれ」という慈しみだけ――そういう心の状態に純化していくことです。

それが、正しい慈しみの念じ方です。

また一緒に考えましょう。