仏教講座スケジュール

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出家が夏に求めるもの

6月14日(火)

ひとまず東京に帰って来た。今回は、長野そして三重への小旅行。いずれも意義ありあまる訪問になった。

ひとの心はときに深い苦悩を背負うことがある。が、心とは無常、つまり形なきものである。

だから、どのような苦悩であれ、それ以上に反応を繰り返さなければ、ほぼ確実に消えていく。これは自分が納得できるか否かを問わず、心の性質にてらせばそうなる、という真実だと思っていい。

本来うつろいゆく形なき心に、なにゆえに苦悩が居座り続けるのか。よく考えれば不思議なことだが、その原因を仏教では〝執着〟あるいは〝業〟と表現するのである。

執着とは、さまざまな意味を持つ。繰り返す心。ひとつの反応に慣れている心。忘れようとしない心。迎合する心。元に戻ろうとする心――ひとは、「変わらない」自分に蜜(快)を覚える。ただ、それはなにゆえに快かといえば、単に「心は同じ反応を繰り返すものだから」である。

ひとはあれこれと理由をつけて、同じ自分を繰り返そうとしてしまうが――もちろんそれ自体がいけないということではない。それもまたひとつの選択たりうる――ただその場合に、たしかにいえることは、「これまでの苦悩も続いてしまう」ということである。

変わらぬ自分に蜜を感じるとともに、変わらぬ自分を生きることで苦しみも背負い続けることになる。ならば、どちらのほうが、冷静に考えてみて自分にとって正しい選択なのだろうか――変わる道を選ぶこと? 変わらぬ道を選ぶこと?

答えをあえて出すなら、「どちらも正解」である(笑)。どちらの人生も、生きていく価値はある。ひとはただひたすら、命続く限り生きていく。それだけでほんとうはよい。

ただ、「変わりたい」という思いがあって、変わらぬ道に留まり続ける自らの執着(生き慣れた心)を「手放していこう」と、道の途中で決意するなら、その決意に素直に沿って生き始めることである。

そのときは、「正しい道」――正しい生き方・心の使い方――をよく学び、自分にできる範囲で精一杯実践することだ。最初から「正しい道」そのものを生きられるわけじゃない(だって過去の自分もしっかり鎮座しているから)。でも「自分」とは違う「正しい道」を知ることで、少しずつ軌道修正が可能になる。「道に立つ」「道を学ぶ」ことは、そういう決定的な意味をもつ。道を知らなければ「自分」を繰り返すしかないが、道を知っていれば「自分」を改めて作っていくことができる。新しい人生が始まるのである。


●今回の訪問は、ちょうど夏を思わせる快晴・暑気だったせいもあって、なにかしら「全国行脚」の予行演習みたいな感じだった。列車に乗る。空を見渡す。野山を眺める。ひとが住まう家、小さな舗道、育ち始めた稲田、光うるおう河、ひとつひとつを心で触れながら飛んでいく。そしてその土地で生きている人たちに出会う。とても美しい時間【とき】がある。夏はひときわそうした旅を可能にしてくれる。

この夏の全国行脚に先がけて、ひとつ雑事を先にお伝えしておくなら、私は娯楽・快楽はいらぬ身である。仏道というひとつの道を、法話会にせよ、講座・講演にせよ、法事にせよ、個人的な相談にせよ、なにかしらの形をもって共有できること一点が、私自身の・興道の里の活動の目的である。

だからぜいたくはいらぬし、酒宴などもってのほかである(笑)。道を分かち合うことになんら役に立たぬからである。

そして、必ず「道をわかちあう」ことを最優先していただきたいと思う。たとえば観光地を訪問する等は、「道の後」におまけとして賜るのはよいのだが、そうした余興の方が先立ったり多くなったりすると、貧乏性の私は途端に疑問を抱いてしまう(笑)。

なるべく働かせて下さるほうがありがたい――どんな小さな相談事でもかまわない。そういう人たちが訪ねてきて下さること、あるいはそういう機会を作って下さることに努めて下されば、たいへんありがたい。

私がつねに想っていること――旅先で見るどの町並みにおいても、その一つひとつの屋根の下には、大なり小なりの苦悩があるものである。その苦悩に触れることはできないか。どうすれば、苦悩を越える〝可能性〟を作り出せるか。どうすれば可能性を求める人たちに出会えるか。どうすれば、可能性を分かち合った喜びをもって次の場所に旅立てるか――。

畢竟(とどのつまり)、私が求めるのは、道を求める人に出会って道を分かち合うことであって、娯楽・余興や、何かしらやった(やりたい)という自己満足ではない。私はそういう道を生きている厳格な出家である。ぜひそのあたり、心の片隅に置いて迎えて下されば、これほどありがたいことはない。


この夏、各地でお会いできるみなさまへ、

ぜひよきひとときを作れますよう、ご協力お願い致します(^人^=)。