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「弱い親」として悩んだときは……

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 生き方としての仏教講座(八正道の続き)

★東洋経済オンライン最新記事 心が強い人は「ムダな考え」を消している


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6月22日 ※長いし、やさしくはないので、ご興味ある方に……^^

ふたたび家族論――今回は、「子に弱い親」について考えてみたい。

子に弱い親というのは、けっこういる。つい子の依存・甘えを受け容れてしまう親。つい子の叱責・怨嗟・非難の言葉・暴力を受け容れてしまう親。

こんな親子関係はもうイヤだと思っている。疲れている。なんとかしてほしいと願っている。

だが、子の行動・性格・言葉・生活はいっこうに変わらず、泥沼のような親子関係が、ずっと続いて
いる――。

こうした関係の呪縛を断ち切る方法というのは、本当にあるのだろうか?――いくつか考えうる点を整理してみよう。


●まず子の心理から理解してみよう――子が親について抱く思いには、きまって期待と妄想がある。

「(親は)本当はこうあるべきである。こうあってほしかった」という思い。

その思いを、執拗に親にぶつけ続ける。子が生まれてから30年、40年、50年経ってもなお、である(親は親になった年齢から、その期待・妄想を向けられることになる)。

子の思いの正体は、シンプルである。最初は、愛されたい・面倒見てほしいという素朴な要求であったろう。ただ、それを受け止める側の親の「人間性」は千差万別である。素晴らしい親、比較的マシな親、けっこう問題ありの親、とんでもない親……それは致し方ない^^;。人間には特徴がある。人間は人間であって、「親」はあくまで二次的な姿である。

ただ、子は、親を「人間」として受け止めることはできない。生まれた最初から、期待・要求・願望を向ける。その願いに、際限はない。量も期間も、「これで終わり」ということはない。

もしある程度、その要求が満たされて、子の人生に、仕事や恋愛や結婚や、その他「外の世界」が入ってくれば、親への期待は減っていく。やがては「親離れ」していくようになる。

ただ、子どもの願望・要求がかなわない状態でとどまった時――たとえば、親が応えきれなかったり、子が何かに挫折してゆきづまったりした時――には、その願いは、不満としてくすぶることになる。ここが、最初の要注意ポイントである。


●子が親にもつ苦しみとは、自身にとって望ましい親の姿を描いて、そうではない親の姿に、怒り、落胆、動揺を抱くところに始まる。

その苦しみのみなもとは、求める心が作り出す妄想である。

その妄想が、いくつかの反応を作り出す。

ひとつは、憤懣。もうひとつは、和解・修復を期待しての迎合である。

後者(努力・迎合)の場合、苦悩するのは、子である。このとき親はトクをする。「権力」を握る。

前者(憤懣)の場合は、親の態度によって二手に分かれる。もし親が、子の憤懣を受け容れない「強い」親である場合、子は、その思いを(最終的に執着を手放して「大人になる」まで)抱え続ける。

この場合、「親を手放す」ことが一番よい。このとき逆に、親に執着して、親の近くに居座ってしまえば、親子は地獄を見る可能性が高くなる。

他方、もし親が、子の憤懣を受け容れてしまう(つまり聞き入れてしまう)「弱い」親の場合、出口の見えない袋小路に入り込むことがある。

というのは、子の憤懣の「原因」を、親は正しく理解できないことが多いからである。

●たとえば、子の憤懣というのは、実は親が想像しない点にあることもある。よくあるのは、子が、人生をうまく生きられていない場合。たとえば、進学、就職その他でつまずいて、「不本意」な思いを抱えている場合である。(あまり指摘したくはないが、結局、怠惰・快楽に執着している場合も、あることもある)

その「不本意」、つまり怒りがアタマに浮かんだ時、自分を責めるか、誰かを責めるか、という形で心は「発散」を求める。

ただ耐えるとか、前向きなモチベーションにつなげることも可能ではあるが、進展のみえない状況においては、難しい。手っ取り早く「責める」対象を探し出すことになる。

責める対象は、身近にいたりする――つまり、怒りを受け止めてしまう親である。あるいは、甘えを許容してくれる親。責めてもなじっても、じっと耐えている親。あるいは、自身の甘え(ときには親を心配させたり、迷惑をかけたり、トラブルを起こしたりという形で出てくることもある)に、あわてふためき、動揺し、なんとかしようと頑張ってくれる親。泣いて嘆いてくれる親。

そういう親が身近にいると、子にとっては、憤懣・怒りのはけ口にしやすい。場合によっては、自分自身のプライド・支配欲を、親に向けて満たしていることもある。

たしかに、子の憤懣の一端には、親がいることはある。だが、原因は親だけに限らない、ということころが、ミソ(注意したい点)である。

親とは哀しいもので――子に責められると、「そのとおりかもしれない」と思ってしまう。自分自身がよき親であったか、十二分にしてやれたか、という点において、自信をもって肯定できる親など、おそらくほとんどいないはずである。ほとんどは、「至らなかった自分」という思いがある。だから、そこを突かれると痛い。親は自分を責め、「せめてなんとか応えてあげよう」と思う。

責める子どもと、受け容れてしまう親――この二つがそろったときに、苦しみの呪縛が生まれる。

●さて、この呪縛を立つ方法とは、どういうものだろうか。

執着こそが苦しみの原因なのだ――という仏教の理解は、ここでも当てはまる。執着を断ち切れば、関係は変わる。

子の親に対する執着。親の子に対する執着。それを断ち切るとは、どういうことだろう?
 
たとえば、子が親への執着を斬って捨てるとは、こういうことである――「親にはなにも期待できないんだ、このヒトはこういう人間なのだ」と割り切ること。

そのときは「こういう人に期待を向けていてもしようがない」と思う。あるいは、「人間としてひどい」相手なら、「そんな人間と関わるべきかどうか」を考えるようになる。親への執着を斬って捨てて、「関係を選べる」心理状態に立った時、子は自由になれる。(捨てましょう(笑))

あるいは、子が、「自分の苦しみの原因は親のせいだ」という思いを断ち切ることである。子はときに「自分がこうなったのは親のせいだ」「あやまれ」「どうしてくれる」と親を責め立てることがあるが、その責任追及の連鎖――親を責め続けるという執着――が切れた時。

そのとき、子は解放され、親も解放される。

●ただ、こうした「解放」は難しい。理由のひとつは、子の側に執着することの快楽があるから(親を責めているかぎり、自分は責任を負わなくてすむ気がする)。

また親の心情として、子の執着を受け容れないことは、難しいからである。それは「愛情」なのか、「弱さ」なのか……たぶん両方である。

親がよくよく注意すべきこと。それは、子が親に向ける執着――憤懣も甘えも含めて――は、実は、親に理由がない場合もありうるということである。

たとえば、子が親に向ける不満の理由が、はるか昔の過去の出来事だったり、子ども自身のつまずきだったり、ふいに湧いてくる怒り交じりの妄想だったりする場合である。これらは「子どもの側の事情」であって、親はもはや関係がない。

(※ちなみに、怒り交じりの妄想というのは、部屋に閉じこもっていたりするときに、ごく自然に出てくる。これは、本人には正当な怒り・妄想に見えるものだが、本当はそうではない。事の本質は、「妄想しやすい環境」に留まってしまっている状況そのものにある。子を責めるのも間違いだし、親を責めるのも間違いである。この正しい理解に立つと、発想が変わってくる。そこまでここでは言及できないけれど(笑))

ただ哀しいことに、弱い親には、そのあたりのことが見抜けない。
見抜けたとしても、過去にさまざまありすぎた関係においては、指摘できない(すると逆効果になる)こともある。

親はえてして弱いもので、子が責め続ける限り――その関係に依存・執着してくる限り――なかなか拒めない。子も、そういう弱い(≒親なりの愛情をまだ持ってくれている)親の態度を見て、責めたり、甘えたり――つまりはその関係に依存――してくる。こうして、苦しみの袋小路――出口の見えない関係の輪廻――が回りだす。


●さて、問題はここからである。苦しみの原因が執着にあるとして、その執着を断ち切る方法の「基本」とは何だったか――そう、正しい理解である。


まずは、子が自身の執着を理解することである。それは、今の生活・状況・関係への「執着」そのもの。持続してしまっている事実そのものを、よくよく理解することである。

そして、子の側でできること・努めるべきことは、「執着していても仕方がない」と目を覚ますことだろうと思う。出口が見えてない今を理解すること。そして新しい方向を見て舵を切ることである。

子がときに親に向ける怒り――その「不本意」な思い――も、同じである。その「不本意」が、自分に何をもたらすのかを、よく理解すること。

親の至らなさ・弱さ・甘さが、今の自分の不本意につながっていることは、たしかにあるかもしれない。

しかしありのままをいえば、それは、今の自分のありかたを決める理由にはならない。過去は過去にすぎず、親は他人にすぎない。過去に戻ったところで、親という他人に目を向けたところで、自身の今が変わるわけではない。

ほんとうは――親も過去も関係なく、このままでよいのか?という問いの一点にたどり着くしかない。

どのような思い・言葉をも、親に向けることはできるだろう。しかし、誰にいかなる思いを向けようとも、ひとつだけどうしても否定できない真実がある――それは、汝(自分自身)のためにならない、ということである。

「汝」(あなた)という言い方は、呼びかける相手を想定している。文字通り「汝」と呼びかけることになる人もいるだろうし、自分自身のことを「汝」と呼んでみるのもよい。自分自身を目の前において、たずねてみるのである。


●親もまた、気づかねばならぬことがある。自分自身がこれまでどのような人間であっても――どんな親として生きてしまったとしても――それは過去のことである。埋め合わせられるものは、埋め合わせよう。ただ、親である前に、小さな人間である自分自身には、どうしても埋められぬものもあるのである。けして「親としての自分」にばかり執着していてはいけない。「親であることをあきらめる」覚悟もまた、必要なときがあるのだろうと思う。

ひとが忘れてはいけないのは、「これは、相手(目の前のこの人)のためになるのだろうか」という発想である。

親もまた、「これは、あなた(子とは呼ばないほうがよい)のためになるのだろうか」を考える。胸を痛めて考える。「親としての自分(の至らなさ・価値・プライド)」に胸を痛めるのではない。苦しんでいるひとりの人間を想って、胸を痛めるのである。

それはときに、覚悟がいる。親が親でなくなる覚悟。そして子が子ではいられない覚悟。

これは案外難しいことだ。たとえば、自身の親――親自身の親も含む――を許すこと。親の業(影響)から自由になること。つまらぬメンツやプライド、世間体、優越欲・支配欲や劣等感などを、「愚かしい判断」とわきまえて、サッパリ捨てること。自身が成長することが先決である。自分が変わっていく勇気を持つ必要がある。


●子としては、こう考えよう――自分が見るべきは、親ではない。自身の人生である。結局は、この関わり・この生活・今日の過ごし方が、自分自身にとってためになるのか。そこを問う努力をしようう。「求めつづけてきた親の姿」は、淋しいことだけど、妄想だ。手放す準備を始めよう。

親としてはこう考えよう――親の自分が見るべきは、子ではない。子を何とかしようとか、子に何かしてあげようとか、いたらぬ自分を反省する・恥ずかしく思うとか、そういうことではない。

親も結局は、自分自身をよく理解するところから、踏み出すしかない。至らなさは至らなさとしていさぎよく受け止めるが、ここから先、よき関係を作っていくために、まずは自分自身が育っていくこと個を、自身と子の前に誓うしかない。

「育つ」とはどういうことか――やはり「正しい理解」を深めることである。自身の心をよく理解するように努めること。そして、子の心をよく理解するように努めること。

理解すべきことは、たくさんある――怒り。裁き(判断)。慢(自分の正しさへのこだわりや世間・近所を気にする心)。こうした思いがある状態で、よき関係を作れるはずがないではないか。

自分の心を、相手の心を、これからの関わり方を、「よく理解できるようになろう」と思えることが、出発点になる。それ以外の地点からは、きっと何も始まらない。

正しく理解する心に立てた時、自然にこう思えるようになるだろう――

あなたの気持ちはわかるし、受け止める覚悟もある。

しかし、それ(あなたがしていること・語ること)は、あなた自身のためにならない。

――今、これを言えば、逆ギレされるかもしれない(笑)。だとしたら、それだけあなたが、自分も、子の心も見えていないということである。きちんと見る・見える人間の言葉は、きっと届く。なぜなら、その言葉は、純粋な悲の心――相手の痛みを感じる心――から発しているものだからである。


これは、複雑で、深く、時間のかかるテーマである。ただ、ひとつだけ最後にまとめてみると、こうなる――

「これは相手のためにならない」という悲の心。

その心が相手に届くように、誰よりも自分自身が理解を深めること――。

(あなたの幸せを祈念しつつ^人^)

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