仏教講座スケジュール

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全国行脚2016スタート! 「仏教ってドライ?」と感じているあなたへ



全国行脚・東日本編、おかげさまで実り多く終了致しました。お声かけてくださったみなさん、どうもありがとうございました。ひきつづき、西日本編に入ります。


7月30日(土)

外に出ると、弩夏【どなつ】であった。空が蒼く光っている。形のまとまった雲が輪郭を輝かせながら流れている。


東武の講座を終えて、残った作業を片付け、翌7月31日の朝、まずは東北仙台に向かって出発。

全国行脚は今年で二回目。今回は北は青森、南は熊本まで訪問させていただく予定。今も訪問地募集中なので、ぜひお声がけください。

仙台では、某会館にて勉強会。地元で主催してくださった女性の知人たちと、ネットで知った人たち。東洋経済オンラインの記事からたどり着いた人たちも。縁というのは、面白い形で広がっていく。

毎回、最初の場所は、初めてということもあり、若干空気が硬い^^*。まずはおひとりおひとりに、近況や今考えている(悩んでいる)ことなどを聞いてみる。話をうかがいながら、共有できそうな言葉・テーマを白板に書いていく。そこから話を組み立てていく――。

○さて、仏教の出発点とは?

私たちが生きている現実というのは、ほとんどの人にとって、得体のしれないもの。生きるとはどういうことか?ということさえ、はっきりさせる機会なく、年を重ねていきがちだ。

仏教的な「発想」によれば(発想という視点が大事なんだけど)――生きるとは「心を使う」ことである。反応すること。「意識」という心のエネルギーを、何か対象(見るもの・聞くものetc.)に使うこと。

もし意識を「不安」という名の妄想に「無自覚のうちに」使っていれば、「喜びの感情」は持てないし、生きている実感も湧かなくなる。というのは、「妄想」と「感情」は別モノであって、意識を妄想に使ってしまっては、感情という反応は生まれにくくなるからである。

また意識を「怒りという感情」に無自覚のうちに使っていれば、まともに考えることはできなくなるし、「自分が何をしているのか」さえわからなくなることがある(鬱はそのひとつの例かもしれない)。

というのは、「感情」と「思考」とは、これまた違うからである。(『これも修行のうち。』をご覧ください――心には五種類あるという第1章)

そして人は、それぞれに「心のクセ」があるから、「妄想」とか「感情」など特定の反応に心を(無自覚のうちに)使ってしまっている。その状態が「なんとなく気が晴れない」「生きづらい」ものに感じられる。


○もし心のクセにストップをかけようと思えば、自分のアタマの中(心の状態)を「正しく理解する」しかない。理解すれば、それだけで心の反応は収まる。止まる。抜けることも可能になる。あくまで「原理」としての話だけど(実践が要るので)。

妄想するのではなく、解釈するのではなく、感情で反応するのでもなく、ひたすら「心の状態を理解する」のである。この心がけって、かなり大事。


○「正しい理解」を育てるのが、サティ(気づき・マインドフルネス)。体の感覚を意識すること――吸っている・吐いている(ふくらみ・ちぢみ)の感覚に意識を向ける。その間は、妄想しない、解釈しない(考えてしまったら、思考という反応が湧いたと客観的に自覚する)。

こうして、とにかく「心の状態を見つめる」こと。これは「実践」。どれだけ練習するか。しなければ、わからないし、変わらない。アタマの中(思考)で考えて「こういうことだろう」というだけでは足りない。これはまだ「妄想」の中に踏みとどまっている姿である。

(理想は本を読むのと同じ時間を、サティの実践に使うこと……難しいかな。)

ヒトの心はとにかく妄想漬け

○最近とみに感じるのは、人間の心はどっぷりと妄想に浸かっているということ。妄想に浸かった状態で、人は考えたり、解釈したり、良し悪しを判断したりしている。それが日常生活になっている。

しかし、「妄想漬けのまま、日常をなんとなく過ごせる」ことと、「妄想を抜けてクリアな心境になる」ことは、まったく違う。海の中と陸の上くらいに、生きている実感が違ってくる。

ふつうに暮らしていても、それなりに楽しく、快適な生活、良好な人間関係は可能だろうと思う。でも、もし妄想を抜けていなければ、いろんな部分で不都合(不快)が出てくることがある。

人間関係でいえば、ひとの心が分からない、関わり方がみえない(モヤモヤが残る)というのは、じつは相手のせいではなく、自分自身の「妄想」が原因だったりする。(とくに親子、恋etc.)

※ちなみに――

○「妄想」は、ほぼ自動的に新しい妄想を作り出して、「正しい理解」をジャマしようとする。この「からくり」がときに、「仏教」をもカン違いさせることがある。

たとえば、最近聞いた興味深い言葉に、「妄想が抜けた心というのは、冷たくなるのではないか」というものがあった。「愛情」「共感」「協力」「きずな」が持てなくなるのではないかと。仏教を突きつめていくと、あまりにドライ、クールで、情のない人間になってしまうのではないかと。

とんでもない勘違い(笑)。これこそ「妄想」が作り出した、奇妙な発想(かんちがい)だといっていい。

考えてみたいのは、人が想像する「愛情」「共感」って、本当にその言葉通りの意味なのか?ということだ。

「愛情」を語りつつ、相手を知らず、理解しておらず、その心の中をただ一方的に妄想しているだけ、ということはないだろうか。妄想を語り、妄想にもとづいて動いているだけで、じつは相手の心に何も届いていない、役に立ってもいない、ということは、ないだろうか。

自分は、本当に、相手の心を正しく理解しているのか?――を考えてみる。そのときに真っ先にリセットすべきは、相手の過去も、相手の言動も、相手の動機も知らないまま、この人はこういう人だろう云々と詮索・解釈してしまっている姿である。それは「妄想」であって、「理解」ではない。

親でも、子でも、恋人でも、友人でも、他人でもよい――その相手の心を(妄想することなく)理解したうえで、どう関わるか、を考えるのが正道ではなかろうか。

そうしたステップをふむならば、その「愛情」が相手に届く・愛情を生かした関係が育つ可能性はある。

しかし、自分が妄想を抜けておらず、またそれゆえに現実の相手とどう関わるか、実際に関わる意欲(覚悟)があるのかも、はっきりしないまま、ただなんとなく「愛情」なるものを適当に「妄想」してしまっている状態も、案外多い気がするのだが、いかがだろう。

○そうした妄想を前提にして、(正しい理解を基本にすえる)仏教について考えると、「仏教ってドライでは?」という思いが出てくるのではないだろうか。

たしかなのは、妄想の中で考える「愛情」と、本当の愛情とは違うということ。前者の愛情は、結局妄想しているだけで、相手のことを本当の意味で愛せてはいない。わかっていないからだ。妄想の中で自己満足している状態とさえいえなくもない。

本当の愛情・思いやり・やさしさは、妄想からは出てこない。あくまで相手の心を、解釈せず、妄想せず、ひたすらクリアに理解するところから、生まれてくるものである。

「相手を理解することは難しい」(不可能)という声も、ときに耳にする。しかし、だからといって「妄想」のまま関わることを正しいとすることはできない。相手の心が見えていないからである。

最大公約数的な(これだけは間違いないといえる)ことをいえば、「相手の心を理解しようという誠実な心がけ」こそが、「愛情の必要成分」だということだ。

「仏教を突きつめると、感情がなくなってしまうのでは?」と妄想する人は、まずはその妄想自体を捨ててみることである。ちゃんと練習して、「ありのままを見る」という心境に立てるようにすることだ。そのとき、すべてが一変するはずである。

そのとき、本当の愛情、寛大さ、優しさ、思慮深さ、頼りがい、リーダーシップ、人と関わる上での責任感・勇気・覚悟……その他さまざまな「美徳」が自由自在になることを知るはずである。

本当の愛情は、正しい理解から始まる。けして妄想からではない――これもまた、ブディズムが教える真理である。(妄想にすがって、なんど失敗してきたことだろうか^^;)


○ブディズムとは一言でいえば何か、と聞かれたら、やはり「正しい理解」と答えることになる。

この言葉は、シンプルにすぎるが、実はすさまじく深く、汎用性(使い道)が広いのだ。「マインドフルネス」も「さとり」も、「理解する」という心がけのバリエーション(一部)である。

では、その「理解する心」をどうやって知るのか――といえば、「気づき」の修行を積むしかない。

やって、やって、やり続けて、いつしか凄まじく理解の力が強くなった――そのときに、

「ああ、私、(かつての苦しみを)抜けたんだ!」

「(妄想を)卒業したんだ!」

「最高の納得にたどり着いたんだ!」

と気づく。

「今を生きる」ということ、「人生の充実」「命の充溢」というのも、実感としてわかる。

ちなみに「理解の力が強くなる」とは、歩いているときの足の裏の感覚をクリアに感じ取れることでもある。「感覚を取り戻す」ことは、「理解力を取り戻す」ことでもある。だからこそ、その心がけで、禅・ヴィパッサナー、ヨガ、スポーツ、散歩、なんでも「感覚を意識する」レッスンをやってみることだ。

ぜひ精進していこうではないか。ブッダが語った言葉だが、「気づきこそ、苦しみを抜けるただひとつの道(方法)」なのである。


――というようなことを、今日の法話会でやったわけではないけど(笑)、でも3時間近く、みなさん熱心に聞いてくださいました。ありがとうございました。 

日本に帰ってきたときは、宇宙空間を浮遊するかのような孤独な日々であった。

今はこうして、かつて足を踏み入れたことのなかった杜の都にて、新しい人たちと自然に話している。人生は面白いものだ。どんどん違う星へと旅して、異空間を進んでいくような感慨がなくもない。

次の目的地は、青森である。


今年はどんな夏になるかしらん?