仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
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「おまえ、新興宗教にハマったのか?」といわれたあなたへ(笑)

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●7月15・16・17日は、全国行脚・前夜祭 神楽坂
「清浄行――心をクリーンにする実践」をやります。日本仏教の話も少し(夏らしく、山岳修験道について。この世界がなかなか面白くてスゴイのです)。

●7月31日 仙台で茶話会(★参加者募集中)、8月1~3日は一関・岩手入りの予定。4日・秋田、5日・山形、6日・宮城、7日以降東北一帯です。訪問先、引き続き受付中です。

●8月28日から四国入り! まずは愛媛・今治へ(★座禅会・座談会をやりますので、希望者はメールでご連絡を。★四国の方、どこか場所を見つけてくれれば参上します。ご連絡下さい。
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「おまえ、新興宗教にハマったのか?」といわれたあなたへ(笑)
 (「新興宗教」とブディズムの違いって?)


4月以降、各地で新しく仏教を学び始めた人たちと出会うようになった。

みな、わかりやすくて、合理的で、役に立つ「ブディズム」に触れて感じ入って下さっている様子である。熱心に通ってきてくれる人たちも増えてきた(ありがとう)。

その人たちから時折聞く話題が、「ウチの人(夫・妻)に話をしたら、『なんだおまえ、新興宗教にハマったのか』と言われた」ということ(^^;)。これがよくあるそうである。

「違うって説明しようとしても、よくわからないから、無視してます(笑)」とある女性はいう。

そうか――たしかに、ブディズムと、宗教との違いって、よくわからないかもしれない。はっきりさせてみよう。


●宗教というのは、「確かめようのない話」がたいてい混じっている。そもそも「宗教」の定義からして「超自然的・超人間的な絶対的存在を崇拝すること」みたいな説明が、辞書にも書いてある。
神さま、あの世、死後の世界、目に見えない力――「宗教」はいろんなことを語る。

特徴的なのは、「これこそが絶対」「これこそが究極」とよく語ること。

そして、「確かめようのない」物語・理屈が、必ず混じっている。

見えないもの・自分には確かめようのないものを「とにかく信じる」ことで、信仰を得たとする。

そして、信じない人を「導く」「救う」とか、「そのままだと悪いことが起きるぞ」とか「地獄に行くぞ」「世界は滅びるぞ(だから信じなさい)」みたいなことを言う(笑)。

もちろん、信じれば「真実」たりうるのだろうし、信じる人にとってはそれは究極で、絶対で、最高の真理といっていいのかもしれない。

ただ、その信仰は、他者には見えない、信じない人間にはやはり確かめようがない、という点で「限界がある」ように思う。「自分に見えるものが、他者には見えない」という限界である。「夜空の星が見える」というのと、「宗教的真理が見える」というのは、性質がまったく違う。「星」は、他の人でも確かめうるが、「宗教」は、見えない人には見えない。


●ここで大事なのは、「その見えないものが、存在するのか否か」ではない。

「他者に見えない以上、限界がある」という「見きわめ」なのである。見える人にとっては真実。だが見えない人にとっては、真実にはならない。

つまりは、真実というのは主観的なものだということだ。それを客観的に正しもの・存在するもの、と考えようとするからおかしくなってくる。

思想・信条・良心というのは、内面の自由としては絶対であるべきだろう。しかし、「他者との関わり」においてまで、絶対ということにはできない。

脳が物理的に異なる以上、「自分に見えるもの」を「他者も見るべきもの」と考えることはできない。というか、すべきではない。

真実は、人の数だけある。「自己の内面」における真実と、「関わり」における真実とは、もはや領域が違うのである。

こうした「見きわめ」(あきらめ)を、人間が持てるかどうか。宗教という名のエゴ・思い込み、それゆえの衝突が激化している今の時代には、そういう理解こそが本気で求められているのだと思う。

こうした「理解の仕方」をこそ共有しようということである。「一部の人間に見える真実」を共有(そのじつ、強要)しようと発想するのではなく――。


●と、ここまできて、「これでは結局、「新興宗教でしょ」というご家族に説明できないだろう」と思うので(笑)、もっとわかりやすく伝えよう。

「我欲」と「妄想」を引いたもの――それがブディズムである。あるいは、人の幸せに純粋に貢献しうる宗教の本質部分である。

他方、「自分の側の利益・権力・名声・規模」といった「内向き」の目的で「妄想」を語りだすのが、「限界ある宗教」である。

※ここで「悪しき宗教」「新興宗教」といわないのは、宗教そのものは「内面的真実」としては価値を持ちうるからである。他者にとってどれほど理解しがたい内容であっても、それを求める人にとっては、「その内面においては真実たりうる」はずである。

ただやはり「限界はある」。それは、「内向きの目的」を共有しない他者が、必ず存在するからである。この事実こそ、「絶対」といっていい。「すべての人間が、ただひとつの思想・人間を信じる」などということは、まずありえないと考えるほうがよい。

だが「宗教」というのは、えてしてこういうとんでもない「妄想」をしてしまう。「自分が正しいと信じるから、絶対で究極」と思い込んでしまうのである。

だが、他者に見えるものではない以上、それは「妄想」なのである。

どのような真実であっても「妄想でしかない」という理解こそが、大事なのだろうと思う。


●今日に至るまで、人間の歴史に登場してきた「宗教」は、「妄想」から自由ではなかったように映る。

「宗教」を信じる人たちは、「妄想」を共有している面があることは否めない。いわば「妄想共同体」である。「他者にとっては妄想にすぎない」という理解が持てない。「私たちにとっての真理は、他者にとっても真理」と思い込む。。その危うさをこそ、他者は警戒するのである。

「我欲」と「妄想」を引け――そこに残るのは何か?

「人それぞれの幸福に役立つ方法の一つ」が残る、と私は思う。

「唯一の方法」ではない。「数ある方法の一つ」が残る。

「方法」は、正しい目的にかなうものだ。「正しい目的」とは、自分自身の幸福、あるいは苦悩からの解放であり、しかも他者に苦悩を与えないものである。

自分自身を苦しめること、あるいは他の誰かを苦しめることは、「正しい目的」ではない。その時点で間違っている。

自分が苦しむか、他の誰かが苦しむという帰結をもたらすものもまた、「正しい方法」ではない。その方法は間違っている。

その目的に、誰かの苦悩があってはならず、その方法が、誰かを苦悩させるものであってはならない。

もしそういう帰結をもたらす思想・宗教があるとすれば、そこには「我欲」か「妄想」がある――そうと気づいて、あきらめねばならぬ。でないと、世界はいっそう殺伐としたエゴとエゴの争いへ突入してゆくだろう。


●ちなみに、ブッダ自身が、人間を苦しめる心の現象(古くは煩悩と呼ぶが)として、貪りと怒りと妄想とを挙げたことは、ここに至って、まさに慧眼だったとわかる(こう書いてしまうと、ブディズム礼賛という危うさを警戒せねばならないが(笑))。

まさに欲と妄想とを、最初に引くべきなのである。そうすれば、「悪しき宗教」は成り立たない。そのとき残るのは、「現実をどう理解し、どう思考し、どう関わればよいのか」という「正しい」(役に立つ)知性ではあるまいか。

私が伝えたいブディズムは、まさにそうした「知性」の一つである。おそらくさまざまな思想・宗教の中に、こうした純粋な知性というのはあるはずだ。

人それぞれの真実を「洗練」させることである。我欲を引け。妄想を引け――合理的で、実用的で、誰かの幸福に役立ち、誰をも苦悩させない「方法」のみに立って生きよう。それで十分ではないか。



ということで、「おまえ、新興宗教にハマったのか」「あなた、やめて」と言われた人は(笑)、「大事なのは、人それぞれが納得いく人生にたどり着く方法。学んでソンはしないよ」と伝えてみよう。

「方法」は、あっていいのではあるまいか。