仏教講座スケジュール

●古い仏教のイメージから自由になりましょう。心の苦悩・現実の課題を越えてゆくことが、最も大事なこと。思い込みを捨てた時に、ブッダの教えの真髄がみえてきます。
●全国行脚、まもなくスタート! 講座、個人相談、法事など、ご希望者はご連絡下さい(クリック)
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●廃寺・空き寺・日本家屋を募集中! 生き方と教育と仏教をひとつの場所で――ご提供くださる方、ぜひご連絡ください。

健康長寿の秘訣は気づきとお尻?(改め、熱き出家の世界)

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●東洋経済オンライン最新記事  ――お役に立てれば幸いです

心が強い人は「無感情」を習慣にしている~簡単!マイナス感情はこうしてリセットする  http://toyokeizai.net/articles/-/126812


●全国行脚 7月31日(日)仙台からスタート! 
東北近郊の方は、カレンダーを見て足をお運びください^^。お会いできますように。

●7月27日(水)午後1時 東武・座禅と仏教講座 TEL03-3988-4855

●生き方としての仏教講座・神楽坂 8月11日・13日(内容同じ)+26日(特別篇) 
●座禅と法話の会・神楽坂 7月24日と8月14日 

※講座の時間はカレンダーをご覧ください。

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7月18日
こんにちは、草薙龍瞬です。

7月連休の講座テーマは、清浄行(心をクリーンに保つ実践と山岳修験道)。

修験道――たとえば、吉野から熊野まで150キロを七日かけて縦断する行――の世界を垣間見ると、かつての日本には、命をかけて行をする熱い人間たちが溢れていたのだと実感する。

古(いにしえ)の仏教には、二種類の伝統があった――ひとつは、飛鳥時代の仏教伝来(蘇我氏主導)からつづく、朝廷や高野山・比叡山が権威を独占した〝仏教エスタブリッシュメント〟。

もうひとつは、その保守本流の仏教から逸脱し、あるいは異議申し立てを行った、行基や役小角(山岳修験道の開祖的存在)、さらには法然(浄土宗の開祖)らの〝仏教アウトロー〟の系譜。

仏教アウトローたちの魂の熱さ、既成の体制・権威に迎合しない勇気は、指摘するまでもない。ただ、仏教エスタブリッシュメントの枠の中でも、かつては、高野山・比叡山にて、命を賭けての激しい修行をしていた仏者たちが、一部いた。

明治時代に、「肉食妻帯」のお達しが来たとき、高野山や比叡山の一部の仏者たちは、「政治が口を出すな」と一喝したという。それくらいの「矜持」「求道の心得」を持っていた仏者は、仏教内の最も権威あり、贅沢・驕りをも許された場所にも、たしかに生きていたということだ。

残念ながら、明治以降の「近代化」、その一環としての廃仏毀釈の威力はすさまじく、またそれにあらがうだけの胆力が仏教界にすでに(江戸幕府の政策ゆえに)失われていたために、明治以降の仏教というのは、戒を失い、目的を失い、道を失った、腑抜けの仏教に化した部分は否めない。

寺を、自らの家族がすまうマイホームとし(つまりは私物化し)、酒やタバコを初めとする放恣・快楽に平気になり、ひとの死をとむらう法事は、寺の経営を支えるビジネスと化した感が否めぬ部分は、今の時代どうしてもある。

かつての、道を求め、それゆえに命を賭けて、仏教や修験の世界に足を踏み入れた、非合理や狂気ときに死さえ受け入れることを恐れなかった、ホンモノ正真の仏者たちというのは、正直、今の時代、今の寺や自称仏教の世界にどれほど残っているか――絶無(まったくない)とはいわないまでも、皆無(ほとんどない)といっていい現状かもしれない。(※ちなみに、凄まじい道をまっとうされている方々も私は存じ上げております。)


●話はそれるが、今夏の全国行脚中、会場に〝お寺関係者〟を呼ぶことは、ご遠慮願いたいと思う。

今回場所を開き、ときに無料で法話会を差し上げるのは、仏教になにかしらの救い・癒しを〝まじめに〟求める一般の人たちのためである。道を求めておらぬ自称僧侶方がやってくるにふさわしい場所ではない。

酒・タバコといった放恣になじんだ身の上をまずは改めることが、何よりも先であるべきだし、もし私が生きている世界に触れてくださろうというなら、「自身の寺に直接呼ぶ」ことが道理であろう。そもそも寺こそが修行・学問の場であるはずだからである。

そのあたりの道理見えぬところは、私は、端的にお断り申し上げる(笑)。筋を通すなら、それが当たり前の話。筋が見えぬこと自体が、仏教というもの、道というものを、簡単に見すぎていることの証左であろうと思う。


●本題に帰ろう――仏教を学ぶことの楽しさは、今の自分・時代を、他者の眼・異なる時代を知ることで「相対化」できることにある。

修験道の世界に触れること、古来の仏者たち、仏教思想というものを学ぶことで、今の時代、今の仏教に、何が根本的に欠けているか――ときにそれは、お遊び・理屈・形骸でしかないこと――を思い知ることである。

かつての仏教には、「合理」はなかったかもしれないが、しかしひとつの道に殉じる真剣さ・誠実さがあった。そういう世界に命をかけてまっとうした仏者たち・仏教の世界に触れることで、今のこの身が失っているもの、この時代が忘れてしまったものを思い出させてくれる。

もし誰かが「道を求める」覚悟を決めていたなら、その学び・発見が、自分にとっての最強のメッセージ、教えになってくれる。そうして、「また一歩この道を歩んでいこう」と思わせてくれるのである。


●この夏のテーマである清浄行は、心をクリーンにする考え方を、いくつかのステップ(段取り)に分けて解説する。と同時に、修験道の世界を資料にまとめて提供する。映像も見る。

この連休に映像の一片をみせて面白かったのは、リアクションが楽しそうだったこと。みな声をあげながら、どこかしら知的好奇心と「こんな世界もあるんだ」 という驚きをもって見ていたように感じた。あの山や崖に、もし自分が挑んだとしたら、そのとき何を思うか、何を見るか――そうやって肌で心で感じて、「自分にとっての意味」を探る。それこそが本当の学びである。


●以前、若い坊さん方が二人、神楽坂の教室にきていた。こういう人たちは、正真の道に立てる可能性がある。端的にいって、今の仏教、今のお寺にいて、悩まない人間のほうが、もしかしたらおかしいのである。真摯な動機、求道の心を持っていたら、切実に悩むのが道理であろう。

何が正しく、何が邪[よこしま]なのか、判断する眼をやしなうことである。そのためには、過去を学ぶこと、本物に触れること。そして仏教においては、ブッダの言葉の本質を、「原始仏教」の中に埋もれたブッダ本来の心の眼――いかに見て、いかに心使うか――を学ぶことである。

そうやって、自身の道を――つまり歩みつづければかならず納得が残る、そういう正真の道を、ダンマ(自身にとっての真実)を――つかんでゆくことである。 

そういう心得を持った者を、求道者といい、仏道を生きる者(仏者)という。

道を求めぬ者、道を失ったまま平気でいる者たちは、寺の内に捨て置くことだ。自らの道をゆくことである。時代は、もはやそういう本当の出家を可能とする時代にある。出家とは、寺の住職とか、ナントカ宗の肩書に収まった者たちのことではない。

出家とは、
自らにとっての真実(ダンマ)のみを胸にすえて、ただ独り生きる覚悟を決めた者をいう。

誰でもなりうる〝生き方〟のことである。

――ということで、講座で触れたのは、「心が年を取らない方法は、気づきとおしりの筋肉をきたえること」であった。これが今回のテーマだったはずのだが、講座の余韻が熱すぎて、熱い話題になってしまった。また機を改めてお話します(笑)。

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